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新短歌に就いて
しんたんかについて
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
初出「短歌研究」1936(昭和11)年12月号
入力者村松洋一
校正者noriko saito
公開 / 更新2015-04-07 / 2015-03-08
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 新短歌に就いて論ずることは、非常に困難なことに思はれる。すべて芸術上の新様式の発生期に当つてその新様式を是非することは、予想外の困難を伴ふことだし、大概の場合正鵠を射当てることはない。そんなわけで私は今どんな断定的な態度をもとることは出来ない。私は此の新生児を抱いて、七転八倒してみるだけのことである。
 扨新短歌は、既に新しい様式として存在してゐるか? 或ひは存在するに到りさうであるか?
 その成績を今問はないこととするならば、新短歌は、どうやら詩歌の新しい様式として、既に存在してゐるやうに思はれる。これが短歌より出て来たものだとしても、既に短歌と訣別して、新しい領土に立つてゐることも恐らく間違ひない。然し、私はさう思ふと同時に、多くの躊躇をも感ずるものだ。そこで問題を、他の側から考へてみる。
 新短歌が、短歌から出て来たものと考ふべきか、全然別個に発生したものと考ふべきかは甚だ疑問であるけれども、短歌にもはや発展の余地がないと思つた人々によつて工夫されたものであることは慥かである。
 では短歌に発展の余地が残されてゐないといふことは事実であらうか? ――多分、事実であらうと私は思ふ。この懐かしい遺風は今後とも決して忘られはしないであらうけれども、今後とも発展しさうには思はれない。恐らく現に生存してゐる歌人諸氏が、最後的のものであらう。すべてかういふことは、判然と示証することは出来ないけれども、短歌を作りたいといふことが、今後とも人々に全的な希望、全的な仕事として考へられることはあり得ないやうに思はれる。元々此の短歌なるものは、生活の傍に生じた芸術といふ感じの強いものであつて、短歌が、一人の人間の全生命となるといふ風のものではなかつた。それは何も人々が短歌に不熱心であつたといふやうなことではなく、短歌様式そのものが本来さうしたものであるやうに思はれる。従つて、人類生活が益々繁忙なものになりゆく以上、さういつた芸術様式が発展を続けてゆくものとは考へられない。
 では新短歌が短歌に交代するものであらうか? 尠くとも短歌に交代するものゝ一つであらうか?
 さしあたつて先づ、新短歌の成績を考へてみよう。――読んでみて面白いものはある。然しその面白さたるや「感覚的」に終止するものであることは争はれない。「感覚的」も結構である。もともと芸術は先づは感覚的でなければならぬ。さもなければ地に根を下ろすことは出来ない。けれども、良い芸術品は、「感覚的」を透して理念(情緒をも含めて)を蕩揺させてゐるものである。理念を指示、或ひは暗示するだけではない、その理念を対者に怡しますものである。その理念を暫時、蕩揺させてみせるものである。その蕩揺といふことがない以上、生活の余暇の芸術ではあり得ても、芸術生活となることは出来ない。謂はば男子一生の仕事となることは出来ない。つまり大人の芸術…

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