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新古細句銀座通
しんこざいくれんがのみちすじ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「大東京繁昌記」 毎日新聞社
1999(平成11)年5月15日
初出「東京日日新聞」1927(昭和2)年5月24日~6月10日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2013-09-28 / 2014-09-16
長さの目安約 46 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

おもいで(一)

 私は明治二十四年に銀座の二丁目十一番地、丁度今の服部時計店のところで生れて、鉄道馬車の鈴の音を聞きながら、青年時代までそこで育って来た。だから銀座のうつりかわりは割合にずっと見て来ている訳であるが、しかし正確なことはもとよりわからない。が、「煉瓦」と呼ばれた、東京唯一の歩道時代からのいろ/\のうつりかわりにはまた語るべきことも多い様である。いろいろの思い出やら、変り行く世の姿から思い起す批評などとりとめもなくかいてみようと思う。
 御承知の方々も多いと思うが私の生家は目薬の精[#挿絵]水の本舗であって、岸田の楽善堂というよりも精[#挿絵]水といった方が通る位の店であった。父(吟香)の道楽から店を半分に切って一方を薬房、一方を書房とし、書房では支那の筆墨硯紙その他文房具風のものや、書籍などを売っていた。唐紙の様な紙を太くこよりの様にしたのに火をつけ、フッと吹くと、ポッと燃えフッと吹くと消えるという様なものがあったりして、面白がってそれをやって遊んだこともある。よく支那人が買いに来ていて番頭さんが片言で「鎮座々々」なんどとやっていた。王テキサイ(字不明)という片腕ない支那人が父のところへよく来たが、これは馬車に腕をひかれたのだとか、多分品物を売り込みに来たものであろう。何しろ日清戦争のじき後のこととて、王テキサイという名が大きな敵の様な気が子供心にして反感を持っていたことなど思い出す。
 私の家の隣には勧工場があって私たち兄弟たちは毎日の様にそこへ行った。何でも私の家の家作であって、南谷という人がやっていた。南谷は今以て人形町に店があるがきんちゃくが漆くいで入口に出来ていたので俗にきんちゃくの勧工場ともいっていた。勧工場も日露戦争後、デパートメント・ストーアの流行とともにだん/\とすたれて、今は殆ど無くなった様だが、当時は少し人出の多い盛り場には必ず一つや二つはあったものだ。銀座だけでも一丁目のもとの読売新聞の一、二軒隣に丸十、そのすじ向いに丸吉、それから南谷、震災前まであった菊屋のところに小さいのが一つ(これはじきなくなった)尾張町の今の鳩居堂のすじ向うあたりに一つ、一丁おいて又一つ、それから新橋際の博品館と六、七軒の勧工場があったものである。
 誠にこの勧工場というものは、明治時代の感じをあらわす一つの尤なるものであって、私共にとっては忘れられない懐かしいものの一つである。細い一間半位の通路の両がわに、玩具、絵草紙、文房具、はては箪笥、鏡台、漆器類、いろ/\のものを売る店があって品物をならべた「みせだな」の一角に畳一畳位の処に店番の人が小さな火鉢や行火をかかえてちんまりと座って、時分時にささやかな箱弁当でも食べていようという光景はとても大正昭和の時代にはふさわない。
 夜の灯が電気に占有されたのは大正初めからだが明治時代は一般には石油ラン…

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