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本所両国
ほんじょりょうごく
作品ID55721
著者芥川 竜之介
文字遣い新字新仮名
底本 「大東京繁昌記」 毎日新聞社
1999(平成11)年5月15日
初出「東京日日新聞」1927(昭和2)年5月6日〜22日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2013-07-24 / 2014-09-16
長さの目安約 43 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

大溝

 僕は本所界隈のことをスケッチしろという社命を受け、同じ社のO君と一しょに久振りに本所へ出かけて行った。今その印象記を書くのに当り、本所両国と題したのは或は意味を成していないかも知れない。しかしなぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気も漂っていることは確かである。そこでO君とも相談の上、ちょっと電車の方向板じみた本所両国という題を用いることにした。――
 僕は生れてから二十歳頃までずっと本所に住んでいた者である。明治二、三十年代の本所は今日のような工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的多勢住んでいた町である。従って何処を歩いて見ても、日本橋や京橋のように大商店の並んだ往来などはなかった。若しその中に少しでもにぎやかな通りを求めるとすれば、それは僅かに両国から亀沢町に至る元町通りか、或は二の橋から亀沢町に至る二つ目通り位なものだったであろう。勿論その外に石原通りや法恩寺橋通りにも低い瓦屋根の商店は軒を並べていたのに違いない。しかし広い「お竹倉」をはじめ、「伊達様」「津軽様」などという大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけていた。……
 殊に僕の住んでいたのは「お竹倉」に近い小泉町である。「お竹倉」は僕の中学時代にもう両国停車場や陸軍被服廠に変ってしまった。しかし僕の小学時代にはまだ「大溝」にかこまれた、雑木林や竹藪の多い封建時代の「お竹倉」だった。「大溝」とはその名の示す通り少くとも一間半あまりの溝のことである。この溝は僕の知っていた頃にはもう黒い泥水をどろりと淀ませているばかりだった。(僕はそこへ金魚にやるぼうふらをすくいに行ったことをきのうのように覚えている。)しかし「御維新」以前には溝よりも堀に近かったのであろう。僕の叔父は十何歳かの時に年にも似合わない大小を差し、この溝の前にしゃがんだまま、長い釣竿をのばしていた。すると誰か叔父の刀にぴしりと鞘当てをしかけた者があった。叔父は勿論むっとして肩越しに相手を振返ってみた。僕の一家一族の内にもこの叔父程負けぬ気の強かった者はない。こういう叔父はこの時にも相手によって売られた喧嘩を買う位の勇気は持っていたであろう。が、相手は誰かと思うと、朱鞘の大小をかんぬき差しに差した身の丈抜群の侍だった。しかも誰にも恐れられていた「新徴組」の一人に違いなかった。かれは叔父を尻目にかけながら、にやにや笑って歩いていた。叔父はかれを一目見たぎり、二度と長い釣竿の先から目をあげずにいたとかいうことである。……
 僕は小学時代にも「大溝」のそばを通る度にこの叔父の話を思い出した。叔父は「御維新」以前には新刀無念流の剣客だった。(叔父が安房上総へ武者修行に出かけ、二刀流の剣客と試合をした話も矢張り僕を喜ばせたものである。)それから「御維新」前後には彰義隊に加わる志を持って…

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