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心理的と個性的
しんりてきとこせいてき
作品ID55733
著者中原 中也
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
入力者村松洋一
校正者noriko saito
公開 / 更新2015-10-27 / 2015-09-25
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 裕福な家庭の、特に才能があるといふ程でもない青年が、「文学でもやつてみるか」といつた調子で、文学志望を抱いたとする。四年五年と経つても、いつかう何も書けさうもない。「書いてゐる奴等はいつたい、いかなれば書けるのであらう?」とやがてだんだん愚痴になる。おのづと「書いてゐる奴等」のアラを探しだす。「アラだらけだ!」と彼は思ふ、「あんなにアラがあるから、あのアラが契機となつて、却て奴等は仕事が出来るのであらう……」
 ところでさういふ場合に彼のアラと云つてゐるものは、概ね処世的要領の稚拙の如きを指してゐるのである。つまり、彼は事文学に関して考へ乍ら、而も文学的アラを云つてゐるわけではない。かう云つてしまふと話は簡単だが、当人としては随分無理もないことである。何しろ文学的素質がないのだ、そこでアラを探すにも彼らしくアラを探すことになる。
(茲で一寸断つて置くが、ホンの少しの事が分ると、分つたことが当人にとつて余りに珍しいので却つて書けるといつたあの生々しい文学青年をも「書いてゐる奴」の中に入れて話してゐるのではない。実際文壇に出ることが容易になつた此の頃は、さういつた文学青年も少くないことで、一知半解の故に却て元気がいいといつた風の元気が、本当の元気と間違へられる風景は、毎日のやうに見受けられることである)。
 扨、件の裕福な青年は、漸く、文学そのものではないかも知れぬが、文学の話をする奴は嫌ひになつてゆく。仮りに相手は文学的個性があるので、自然、文学の話をするやうになるのである場合も、その相手が嫌になる。否、相手に個性があればある程嫌になる。勿論、当人としては相手の個性を嫌つてゐるつもりはない、相手の話しぶりだの手ぶりだの、要するに相手の人間臭を嫌つてゐるつもりなのだが、そんならその話の特に個性的な部分だけでも聴くかといふと強ちさうでもない。
 かうなると件の青年は、次第々々に心理的には発達してゆき、其の他の点では寧ろ退化しはじめるといふやうなことになるのである。つまり、人の顔色を見るやうな能力はみるみる発達する一方、瞑想だの理念だのは、さなきだに濃厚ではないのが、発展の余地を持たなくなり、益々衰へてゆくのである。
 今、件の青年をAとし、相手の青年をBとするとして、二人の交游がどんな有様を呈するであらうか、以下そのことを誌してみたい。
 だがいつたい、茲で心理的に見るといふのは、如何いふことであらうか?
 例へば茲に一農学士があり、非常に立派な耕作法を学び、百姓に教へに行く任務を帯びるとする。その耕作法その物は、真に偉い学者が発見したものであるが、その農学士は、唯それを暗記したに過ぎないとする。そこで彼農学士が、百姓等の面前でその耕作法を述べる時、その述べる態度は甚だ心許ない。扨百姓達の方は、その態度が心許ないせゐではないが、何分嶄新なその耕作法は、聴けども聴…

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