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撫でられた象
なでられたぞう
作品ID55734
著者中原 中也
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
入力者村松洋一
校正者noriko saito
公開 / 更新2015-10-27 / 2015-09-01
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 様々な議論が沸騰してゐるけれど、それらの何れもはや議論といふよりは彷徨、それも随分無責任な、身入りのしないことにしか過ぎない。かくて人々は、それを時代のせゐに帰したりするのだが、それとて十分の根拠を有することでもない。
 現代は不安な時代であらうか? それはさうでもあらう。然るに文学者達が斯くも自信を失つてゐるのは強ちそのせゐであらうか?――然し、事象は歴史を織りなして行くであらうが、歴史が事象を織りなしてゆくとは冠履転倒のことであるから、時代なぞといふ方から文学を考へるよりも、文学者自体の実状を反省してみることは却て賢明なことであらう。
 扨、さういふことにすれば、現今文学者が彷徨してゐるといふことも、私には案外簡単なことに思へて来る。
 それは我々の前には近々七十年以前に、急劇にも西洋文学といふ、目新らしい様式の文学がドヤドヤ現れて来たといふことであり、それの消化は未だ甚だ不十分であるといふことである。何だ、そんなことかと諸君は云はれるでもあらうが、まあまあ鳥渡待つて下さい。人々はドストエフスキーを読みバルザックを読み、[#挿絵]ルレーヌを読むが、そして面白いといふのであるが、果してそれらの「流れ」、つまり持続を面白いといつてゐるのであらうか、それとも部分々々を面白いと思つたものであらうか? 恐らく後者だと私は思ふ。かくて象の鼻を撫でた人は細いといひ象の胴を撫でた人は太いと云つてゐるのと同断で、何もそれは象のことを云つてゐるのではないのである。扨、象のことを知らないで、象の部分を知つたことを以て、何かおぼろに感じた象のことを言表はさうとするやどんなことになるであらうか? とまれ作品は一個の全体的な或物でなければならない、象の鼻だけではすまない、然るに鼻しか知らないといふ時には、本来なら、おのづと象が描きたくなるものではないのだが、而も文学をやつて来た以上それを描きもしなければならぬといふ極く卑近な理由からしてともかく象を描かうといふ場合、我々はかの意志にばかり依拠することとなるのである。さて意志にばかり依拠することは、そのことが既に芸術の方則に悖ることとなるのである。何故なら、作品は一つの存在物、従つて一つの姿を持たねばならず、意志といふものから姿は出て来ぬものであるから。かくて実状は意志を以て鼻だけの材料でともかく象を描かうといふのであるから、無理はもとよりだが、単なる意志、単なる努力といふものも、事物の配列を変へる能力くらゐはあるものだから、とにかく作品のやうなものが出来はする。
 然るに、人間そんな作品のやうなものには自信の持てようわけはないのである。書きたいことはないけれど、あの人が嫌ではないしするから書かうといつて書く手紙に、受取つた人が感動する筈はないのである。だが現今の殆んど全ての文芸作品はその手紙に似てゐる。その手紙をともかく「手紙とい…

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