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牧野富太郎自叙伝
まきのとみたろうじじょでん
作品ID55789
副題01 第一部 牧野富太郎自叙伝
01 だいいちぶ まきのとみたろうじじょでん
著者牧野 富太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「牧野富太郎自叙伝」 講談社学術文庫、講談社
2004(平成16)年4月10日
入力者kompass
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2014-02-26 / 2014-09-16
長さの目安約 113 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

幼年期


 土佐の国、高岡郡佐川町、この町は高知から西へ七里隔ったところにあり、その周囲は山で囲まれ、その間にずっと田が連り、春日川という川が流れている。この川の側にあるのが佐川町である。南は山を負った町になり、北は開いた田になっている。人口は五千位の小さい町である。この佐川からは色々な人物が輩出した。現代の人では田中光顕・土方寧・古沢滋(迂郎が元の名)・片岡利和・土居香国・井原昂等の名を挙げる事ができる。古いところは色々の儒者があり、勤王家があった。この佐川町から多くの儒者が出たのは、ここに名教館という儒学つまり漢学を教える学校があり、古くから教育をやっていたためである。佐川には儒者が多く出たので「佐川山分学者あり」と人がよくいったものである。山分とは土地の言葉で山が沢山あるところの意である。

 佐川の町は山内家特待の家老――深尾家の領地で、それがこの町の主権者であった。
 明治の代になり、文明開化の世になると学校も前とは組織も変わり、後にはそこで科学・文学を教えるようになった。そうなったのが明治五、六年の頃であった。

 明治七年にはじめて小学校制がしかれたので名教館は廃され、小学校になった。

 佐川の領主――深尾家は主権者だが、その下に多くの家来がいて、これらの武士は町の一部に住み、町の大部分には町人が住んでいた。そして町の外には農家があった。近傍の村の人達は皆この町へ買物にきた。佐川の町には色々の商人がいて商売をしていた。佐川は大変水のよいところなので酒造りに適していたため、数軒の酒屋があった。町の大きさの割には酒家が多かった。
 この佐川の町にかく述べる牧野富太郎が生まれた。文久二年四月二十四日呱々の声を挙げたのである。牧野の家は酒造りと雑貨店(小間物屋といっていた。東京の小間物屋とは異なっている)を経営していた。家は町ではかなり旧家で、町の中では上流階級の一軒であった。父は牧野佐平といって、親族つづきの家から牧野家へ養子にきた人である。牧野家家付の娘――久寿は、すなわち私の母である。
 佐平と久寿の間にたった一人の子として私は生まれた。私が四歳の時、父は病死し、続いて二年後には母もまた病死した。両親共に三十代の若さで他界したのである。私はまだ余り幼かったので父の顔も、母の顔も記憶にない。私はこのように両親に早く別れたので親の味というものを知らない。育ててくれたのは祖母で、牧野家の一人息子として、とても大切に育てたものらしい。小さい時は体は弱く、時々病気をしたので注意をして養育された。祖母は私の胸に骨が出ているといって随分心配したらしい。酒屋を継ぐ一人子として大切な私だったのである。
 生まれた直後、乳母を雇い、その乳母が私を守りした。この女は隣村の越知村からきた。その乳母の背に負ぶさって乳母の家に行ったことがあった。その時乳母の家の藁葺家根…

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