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ヴェニスに死す
ヴェニスにしす
原題DER TOD IN VENEDIG
著者
翻訳者実吉 捷郎
文字遣い新字新仮名
底本 「ヴェニスに死す」 岩波文庫、岩波書店
1939(昭和14)年1月10日
入力者kompass
校正者荒木恵一
公開 / 更新2015-08-12 / 2015-10-26
長さの目安約 168 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

第一章

 グスタアフ・アッシェンバッハ――または、かれの五十回目の誕生日以来、かれの名が公式に呼ばれていたとおりに言うと、フォン・アッシェンバッハは、一九××年――これはわれわれの大陸に対して、幾月ものあいだ、じつに脅威的な様子を見せた年だったが――その年の春のある午後、ミュンヘンのプリンツレゲンテン街にある自宅から、ひとりで、かなり遠くまで散歩に出かけた。午前中の、めんどうな危険な、今まさに最大の慎重と周到と、意志の透徹と細密とを要する労作で興奮しすぎて、この作家は、自分の内部にある生産的な機関の不断の振動を――ツィツェロによれば、雄弁の本体にほかならぬ、あの「精神のたえざる動き(motus animi continus)」を、昼食後にもやはり制止することができなかった。そして気持を軽くしてくれるまどろみを見いださなかった。これは精力がますます消耗されやすくなっているこのさい、かれにとって、途中で一度はぜひ必要だったのだが。そこでかれは、茶をのみ終るとまもなく、空気と運動が元気を回復させ、有効な一夕をえさせてくれるだろうという望みをいだいて、戸外を求めた。
 それは五月はじめのことで、湿気の多い寒い幾週日のあと、うその真夏が不意にきていた。イギリス公園は、つい若葉が出はじめたばかりなのに、八月ごろのようにむっとこもっているし、町の近郊は馬車や散歩の人たちでいっぱいだった。しだいに静かになってゆく通りから通りへとたどりながら、アウマイスタアの店までくると、アッシェンバッハは、民衆でにぎわっているその料亭の庭を、しばらくながめ渡したのち――庭のへりには、辻馬車や自家用の馬車がとまっていた――そこから、かたむく日ざしのなかを、公園の外側のひろびろとした広野を越えて、家路についた。そして疲れをおぼえていたし、フェエリングの上方に雷雨がせまっていたので、一直線に町までつれもどしてくれるはずの電車を、北部墓地のところで待っていた。
 ふとかれは、停留所にもその近くにも、人影がないのを見いだした。線路をさびしく光らせながら、シュワアビングのほうへ延びている、舗装されたウンゲラア通りにも、またフェエリンガア街道にも、のりものは一つも見えなかった。売物の十字架だの、墓碑だの、記念碑だので、別の、空いた墓地のできている、石工場のさくのむこうには、何一つ動くものもなかった。そしてむこう側にある斎場のビザンチウム式の建物は、黙然と落日のなかによこたわっていた。その堂の正面は、ギリシャふうの十字架や、明るい色彩の古代エジプトふうの絵画で、飾られているうえ、なお、つりあいよく並べられた金文字の銘を表わしていた。つまり、あの世の生命についてのえりぬかれた聖句で、たとえば、「かれら神の家に入る」とか、「久遠の光りかれらを照らせ」とかいうのであった。そしてこの待っている男は、これらの文句…

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