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いしょうとだな
作品ID55963
原題DER KLEIDERSCHRANK
著者マン パウル・トーマス
翻訳者実吉 捷郎
文字遣い新字新仮名
底本 「トオマス・マン短篇集」 岩波文庫、岩波書店
1979(昭和54)年3月16日
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2015-05-09 / 2015-03-08
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ベルリン―ロオマ行の急行列車が、ある中ぐらいな駅の構内に進み入ったのは、曇った薄暗い肌寒い時刻だった。幅の広い、粗ビロオドの安楽椅子に、レエスの覆いをかけた一等の車室で、あるひとりの旅の客が身を起した――アルプレヒト・ファン・デル・クワアレンである。彼は眼を醒ましたのである。口の中に、なんだかまずい味が感ぜられる。そしてからだは、あのあまり愉快でない感じでみたされている。やや長く走った後の停止と、リズムをなしてとどろいていた車輪のひびきの終息と、呼び声や警笛など、窓外の騒音を、妙に意味ありげに際立たせる静寂とによって呼び起される、あの感じである。――これはちょうど陶酔や麻痺から、我に返った時のような心境である。われわれの神経からは、今までそれがもたれていた支え、つまり、リズムが、突然取り去られてしまう。そこで神経は、非常にみだされたような、取り残されたような感じを受ける。しかもわれわれがそれと同時に、重苦しい旅の眠りからさめる時には、なおさらその感じがはなはだしいのである。
 アルプレヒト・ファン・デル・クワアレンはちょっと伸びをすると、窓際に近づいて、窓ガラスをおろした。彼は列車に沿うて眼を走らせた。むこうの郵便車のところでは、おおぜいの男たちが、荷包の揚げおろしに精を出している。機関車は二三度音を立てて、くさめをして、少しがたがたゆれたが、やがて声をひそめて、じっとしてしまった。ただしそれは、ちょうど馬がふるえながら、蹄を挙げ耳を動かして、走り出す合図をじりじりと待っているような立ちどまりかたであった。長い雨外套の、大きな肥った婦人が一人、限りなく心配そうな顔をして、ひどく重そうな鞄を、片膝でぐいぐいと突きながら、たえず客車沿いにあちこちと持ち扱っている。無言で、物に逐われるように、不安そうな眼をしながら。ことに彼女のぐっと突き出した、ごく小さな汗の玉の浮かんだ上唇には、なんとも名づけがたくいじらしいものがあった。――ほんとに気の毒だね、お前さん、とファン・デル・クワアレンは思った。力を貸してあげられるといいのだが。席を取って安心させてあげられるといいのだが。お前さんのその上唇のためだけにでもね。だが、めいめい自分のことをするよりほかはない。そうできあがっているのだ。だからわたしは、この瞬間、なにひとつ心配のないわたしは、ここに突っ立ったなり、まるであおむけにころがっている甲虫でも眺めるように、お前さんの様子を見ている。――
 ささやかな構内には、薄明りがみなぎっていた。夕方だろうか、それとも朝だろうか。どっちとも彼は知らない。彼は眠っていたのだが、二時間ねたか三時間ねたか、あるいは十二時間ねたか、それも全くなんとも見当がつかない。二十四時間以上つづけざまに、深く、非常に深く眠ってしまったようにも思われはしないか。――彼はビロオドの襟の、裾短かな焦茶色…

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