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神童
しんどう
作品ID55969
原題DAS WUNDERKIND
著者マン パウル・トーマス
翻訳者実吉 捷郎
文字遣い新字新仮名
底本 「トオマス・マン短篇集」 岩波文庫、岩波書店
1979(昭和54)年3月16日
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2015-05-12 / 2015-03-08
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 神童が入って来る――会場はしんとしずまる。しずまったと思うと、やがて人々は手を叩きはじめる。どこかわきのほうの席で、ある生れながらの支配者、統率者である人が、まずはじめに拍手したからである。人々はまだなんにもきかぬうちから、喝采を浴びせている。それは大仕掛な宣伝機関が、この神童の先に廻って活躍したので、知るも知らぬも、みんなすでに眩惑せられているのである。
 神童は、一面にアンピイル式の花環と、大きな仙花とで刺繍せられた、華麗な衝立のかげから現われて、すばしこく段々を昇って、演奏壇へあがると、風呂にでも入るように、拍手喝采の中へ入って行く。少しさむけを覚えて、かすかな身ぶるいにおそわれながら、しかしそれでいて、ある快い雰囲気の中へ入って行くような気持なのである。演奏壇の端まで進んで、写真でもとられる時のように微笑する。そして男の児のくせに、女のするような、小さいおずおずしたかわいらしいお辞儀で感謝する。
 着物はすっかり白絹ずくめである。それが満場にある種の感動をみなぎらせる。奇抜な仕立の小さい白絹の上着の下に、飾り帯をしめている。靴までが白絹製である。ただし白絹の半ズボンは、濃い鳶色のあらわな脚と、くっきり映り合っている。神童はギリシアの少年なのである。
 ビビイ・ザッケラフィラッカスと彼は呼ばれる。これがもとから彼の名である。「ビビイ」というのは、なんという名前の略称か、あるいは愛称か、それは興行主のほかにはだれも知らない。興行主はそれを商売上の秘密だと号している。ビビイの髪は滑らかで黒く、肩まで垂れているが、それでも横のほうで分けてあって、狭い弓なりの、鳶色がかった額にかからぬように、小さな絹紐で結んである。世にもあどけない限りの子供っぽい顔に、まだ成りきらぬ鼻と、何も知らぬ口とがある。ただ漆黒の柔和な眼の下のあたりには、すでにやや疲れた色があって、はっきりと隈ができている。ちょっと見には九つぐらいだが、実はようやく八つで、しかも触れ込みは七つなのである。その触れ込みをほんとうに信じているかどうかは、聴衆自身といえども知らない。おそらくみんなはいろんな場合にいつもそうするごとく、ほんとうのことを知っていながらも、やはり触れ込みの通りに信じているのであろう。すこしぐらいの嘘は、美のために必要なのだと彼等は考える。大目に見ようという善意をちっとは持ってこなければ、塵労の後に心を浄めたり高めたりすることができるものか、と彼等は考える。そして彼等の凡俗な脳髄が考えていることは、しごくもっともなのである。
 神童は挨拶の喝采がおさまるまで感謝しつづけて、それからグランド・ピアノのそばへ歩み寄る。そこで聴衆は、最後の一瞥をプログラムに投げる。最初が「祝典行進曲」、次が「夢想」、その次が「梟と雀」――すべてビビイ・ザッケラフィラッカス作曲である。プログラム全体がこ…

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