えあ草紙・青空図書館 - 作品カード


広告

トリスタン
トリスタン
原題TRISTAN
著者
翻訳者実吉 捷郎
文字遣い新字新仮名
底本 「トオマス・マン短篇集」 岩波文庫、岩波書店
1979(昭和54)年3月16日
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2015-04-21 / 2015-03-08
長さの目安約 88 ページ(500字/頁で計算)
えあ草紙で読む
HTMLページで読む

広告

find Kindle 楽天Kobo Playブックス

find Audible YouTube

本の感想を書き込もう web本棚サービスブクログ作品レビュー

青空文庫の図書カードを開く

find えあ草紙・青空図書館に戻る

楽天Koboで表紙を検索

広告

本文より

 ここは療養院「アインフリイト」である。横に長いその本館と、それから側翼とは、白く直線的に、広い庭園の真中に横たわっている。庭園には、岩窟や外廊や樹皮でつくった小亭などが、面白くしつらえてある。そして療院のスレエト屋根の向うには、樅の色も蒼々と、おおらかに、柔かな裂目を見せながら、山々が空高くそびえ立っている。
 ここの院長は、前からずっとレアンデル博士である。家具に詰める馬の毛のように、剛く縮れた黒い八字髭と、厚いぎらぎらする眼鏡と、科学で冷たく堅くなった、そして静かな寛やかな厭世観でみたされた男の外貌とをもって、博士は簡潔な寡黙な態度で患者たちを――自分で法則を立ててそれを守るにはあまり弱すぎるところから、彼の厳格さに身を支えてもらえるようにと、彼にその財産を提供している人々すべてを、その掌中に収めている。
 フォン・オステルロオ嬢のことをいうなら、彼女は不撓の献身をもって、事務をつかさどっている。いやまったく、彼女はなんとまめまめしく階段を上下しては、療院の端から端までかけ廻っていることだろう。台所や貯蔵室で采配を振る。洗濯戸棚の中をあちこちよじ昇る。使用人たちに号令をくだす。そして節倹と衛生と美味と、それから体裁のよさとを基にして、院の食卓を按排する。彼女は気違いじみるほど小心翼々として、世帯を取り締るのである。そうしてこの極端な活躍の裏には、男性全体に向ってのたえざる非難が潜んでいる。男性のうちまだ誰一人として、彼女を娶ろうなんぞと思いついた者はないのであった。しかし彼女の両頬には、いつかはレアンデル博士夫人になりたいという、消しがたい希望が、二つのまるい真赤な斑点になって燃えている……
 オゾオンと、静かな静かな空気……肺患者に向って、この「アインフリイト」は、たとえレアンデル博士の羨望者や競争者が何をいおうとも、最も熱心にすすめることができる。ただしここには肺結核病者ばかりでなく、あらゆる種類の病人――男子も婦人も、また子供までも逗留している。レアンデル博士は、きわめて多方面にわたって成果を挙げているのである。この療院には、シュパッツ市会議員夫人のように、胃の悪いのもいれば(この人はそのうえ耳もわずらっている)、心臓に故障のある人たちもいるし、中風患者、リュウマチス患者、それからあらゆる程度の神経病者もいる。ある糖尿病の将軍も、たえずぶつぶついいながら、ここで恩給を消耗している。頬のこけた数人の紳士は、あのよくない徴候の、だらけた様子で、脚を投げ出すようにして歩いている。ある五十歳の婦人――ヘエレンラウフ牧師夫人は、十九人の子供を生んで、もう考えるということが絶対にできなくなっているのだが、それでもなお静穏の域に達せず、あるおじけた焦躁にかりたてられて、すでに一年このかた、附添看護婦の腕にすがったまま、凝然と無言であてもなく、薄気味悪く療院中を…

えあ草紙で読む

ライフメディアへ登録

Koboユーザー必見!
楽天スーパーポイントとは別に
価格の5%がポイントに!

find えあ草紙・青空図書館に戻る

© 2016 Sato Kazuhiko