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ゆく雲
ゆくくも
作品ID56043
著者樋口 一葉
文字遣い新字旧仮名
底本 「にごりえ・たけくらべ」 新潮文庫、新潮社
1949(昭和24)年6月30日、2003(平成15)年1月10日改版
初出「太陽」1895(明治28)年5月号
入力者酔いどれ狸
校正者岡村和彦
公開 / 更新2014-11-26 / 2014-10-13
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 酒折の宮、山梨の岡、塩山、裂石、さし手の名も都人の耳に聞きなれぬは、小仏ささ子の難処を越して猿橋のながれに眩めき、鶴瀬、駒飼見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京にての場末ぞかし、甲府はさすがに大厦高楼、躑躅が崎の城跡など見る処のありとは言へど、汽車の便りよき頃にならば知らず、こと更の馬車腕車に一昼夜をゆられて、いざ恵林寺の桜見にといふ人はあるまじ、故郷なればこそ年々の夏休みにも、人は箱根伊香保ともよふし立つる中を、我れのみ一人あし曳の山の甲斐に峯のしら雲あとを消すことさりとは是非もなけれど、今歳この度みやこを離れて八王子に足をむける事これまでに覚えなき愁らさなり。
 養父清左衛門、去歳より何処※処[#「鼾のへん−自−田」の「一」に代えて「二」、U+4E93、152-10]からだに申分ありて寐つ起きつとの由は聞きしが、常日頃すこやかの人なれば、さしての事はあるまじと医者の指図などを申やりて、この身は雲井の鳥の羽がひ自由なる書生の境界に今しばしは遊ばるる心なりしを、先きの日故郷よりの便りに曰く、大旦那さまことその後の容躰さしたる事は御座なく候へ共、次第に短気のまさりて我意つよく、これ一つは年の故には御座候はんなれど、随分あたりの者御機げんの取りにくく、大心配を致すよし、私など古狸の身なればとかくつくろひて一日二日と過し候へ共、筋のなきわからずやを仰せいだされ、足もとから鳥の立つやうにお急きたてなさるには大閉口に候、この中より頻に貴君様を御手もとへお呼び寄せなさりたく、一日も早く家督相続あそばさせ、楽隠居なされたきおのぞみのよし、これ然るべき事と御親類一同の御決義、私は初手から貴君様を東京へお出し申すは気に喰はぬほどにて、申しては失礼なれどいささかの学問などどうでも宜い事、赤尾の彦が息子のやうに気ちがひに成つて帰つたも見てをり候へば、もともと利発の貴君様にその気づかひはあるまじきなれど、放蕩ものにでもお成りなされては取返しがつき申さず、今の分にて嬢さまと御祝言、御家督引つぎ最はや早きお歳にはあるまじくと大賛成に候、さだめしさだめしその地には遊しかけの御用事も御座候はんそれ等を然るべく御取まとめ、飛鳥もあとを濁ごすなに候へば、大藤の大尽が息子と聞きしに野沢の桂次は了簡の清くない奴、何処やらの割前を人に背負せて逃げをつたなどとかふいふ噂があとあとに残らぬやう、郵便為替にて証書面のとほりお送り申候へども、足りずば上杉さまにて御立かへを願ひ、諸事清潔にして御帰りなさるべく、金故に恥ぢをお掻きなされては金庫の番をいたす我等が申わけなく候、前申せし通り短気の大旦那さま頻に待ちこがれて大ぢれに御座候へば、その地の御片つけすみ次第、一日もはやくと申納候。六蔵といふ通ひ番頭の筆にてこの様の迎ひ状いやとは言ひがたし。
 家に生抜きの我れ実子にてもあらば、かかる迎へのよしや…

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