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死んだ千鳥
しんだちどり
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」 講談社
1967(昭和42)年6月20日
初出「婦人倶楽部 臨時増刊」大日本雄弁会講談社、1937(昭和12)年3月
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2014-03-07 / 2014-09-16
長さの目安約 32 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

藪椿


 裏藪の中に分け入って佇むと、まだ、チチッとしか啼けない鶯の子が、自分の袂の中からでも飛んだように、すぐ側から逃げて行く。
(おや、白い小猫?)
 と、見れば、それは七日も前に降った春の雪が、思いがけなく、双つの掌に乗るほど、日蔭に残っているのだった。
『――町にも、町の人達にも、春が来ているのであろうに』
 家の中に閉じ籠ったきりの良人の姿は、ちょうどそこの一塊りの雪その儘な――と彼女は思った。
 墨江の耳には、世間の物音が、羨ましく聞えてくる。藪向うの屋敷でする朝からの稽古鼓や、歌舞伎町の遠い太鼓の音や――。江戸の屋根は、女のつつましさへ何か唆るように、ほの紅い昼霞にぼかされていて、空は飽くまで碧かった。
『御新造様、そこにおいでで御座いましたか。――表の京染屋でございますが』
 後の声に、墨江はふり顧って、
『ア、菱田屋さんかえ、ちょっと待っておくれ』
 蕗の薹を摘んだ小笊の中へ、藪椿を一枝折って、それを袂に抱えながら、彼女はわが家の台所口へ戻って来た。
 京染屋の手代は、墨江に尾いて、板の間へ腰かけるとすぐ包みを解いて、
『まあ御覧くださいまし。あの無地のお召が、とてもよい小紋に染上がりましてな。お仕立も、吟味いたしたつもりでございますが』
『ほんに新し物になりましたね。頭巾のほうは』
『お頭巾も持って伺いましたが、ただ、お色がちと、派手気味に揚りましたので』
『まあ、よい色ですこと』
『御新造様のお好みは、お渋いうちにも、やはりちと派手気味が御意に召すようでございますな。いや、何ういたしまして、まだまだ、御新造様などはお地味なほうで、世間は派手になるばかりでございます。路考茶だとか、吉弥臙脂とか、それがあなた様、若いお娘だけの流行ではございませんので』
『これ、ちと声を静かにしやい。旦那様のお耳にふれると、又御機嫌を損じますから』
『あ、御在宅で。……これは何うも』
 あわてて腰を上げながら、勘定書を出すと、墨江は、
『……一緒に』
 と、低声で断って、そこの水屋障子をすぐ閉め切った。


西京春信


 浪人してからは、米一粒の稼ぎもしていない。無為、坐食、そんな日がもう五年目になる――
『よく過ごして来られたもの』
 と、平田賛五郎も、われながら不思議に思う。
 しかも、夫婦共にまだ、どこか以前の気位を持していて、そう垢じみた生活に疲れてもいない。
『……だが、ここらがもう、底の底だろう』
 この間から賛五郎は考え初めていた。沈湎と腕拱みした儘、いつぞやの雪の日からまだ下駄を穿いて一歩も外へ出ていなかった。
 ――その雪の日であった。
 この江戸へ来てから知己になった浪人仲間の友達が三、四人打ち連れて来て、
(どうだ、貴公も行かないか。ぜひ一口入れ。吾々が世に浮かび出る千載の一遇が来たのに、その機会を逃がすなどという法があるものか。―…

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