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百唇の譜
ひゃくしんのふ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「野村胡堂伝奇幻想小説集成」 作品社
2009(平成21)年6月30日
初出「文芸倶楽部」1931(昭和6)年9月
入力者門田裕志
校正者阿部哲也
公開 / 更新2015-08-27 / 2015-05-24
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

千代之助の悲しい望

 二人は葉蔭の濡れ縁に腰をおろして、夕陽の傾くのを忘れて話し込んで居りました。
 小田切三也の娘真弓と、その従兄の荒井千代之助は、突き詰めた恋心に、身分も場所柄も、人の見る目も考えては居なかったのです。
 千代之助は二十一、荒井家の冷飯食いで、男前ばかりは抜群ですが、腕も学問も大なまくら、親に隠れて、小唄浄瑠璃の稽古所に通ったり、小芝居の下座で、頼まれれば篠笛を吹いたりするような心掛ですから、どんなに間違ったところで伯父の小田切三也が、娘の婿にする筈もありません。
 真弓は取って十八、魂を吹っ込んだ人形のように綺麗な娘で、千代之助とは幼な友達、それが何時の間にやら、恋心に変ったのですが、父親の三也は、そんな事に一向お構いなく、これも五六年前から小田切家に引取って居る、遠縁の若侍半沢良平と厄年を嫌って、此秋は祝言をさせる段取まで決って居たのです。
 若い二人は、併しそんな事に遠慮などはありません。「男女七歳にして席を同ゅうせず」と言った旧道徳は、徳川幕府の勢威と共に頽れて仕舞って、今は従兄弟同志の親しさに、角目立って物を言う人も無いのを幸い、鎧蔵の前の濡れ縁に寄り添って、もう半日近く何んか囁き合って居ります。
「真弓殿」
「ハイ」
「近頃不躾だが、その懐紙を見せて貰えまいか」
「何うなさいます」
 真弓は驚いて、唇を押えた二つ折の小菊を持ち直しました。
「真弓殿の唇は、よく熟れた茱萸のようで、唇の紅さが、そのまま小菊の上へ写りそうでならない。一寸拝見――」
「あれ、千代助様、私は口紅は付けては居りません」
「それは言うまでもない。真弓殿の唇より紅い口紅が何処の世界にあろう」
 千代之助はそう言い乍ら、片手を縁の板に突いて、斜下から夢見るような真弓の口許を見上げるのでした。
 調子は如何にも冗談らしく聞こえますが、言葉の底には妙に真剣さが溢れて、真弓は思わず、振袖を右手に巻いて、自分の唇を隠したほどでした。
「真弓殿」
「…………」
「真弓殿」
「私はもう嫌、千代之助様は、からかいなすってばかり――」
 華奢な撫肩をプイと反けて、島田髷を少し後ろに反らせ乍ら二つの袂を膝の上で揉んで居ります。
「真弓殿、からかいや冗談では無い――この通り大真面目な私の顔を見るが宜い」
 千代之助は娘の膝へ手を掛けて、少し邪慳に自分の方へ振り向け乍ら、
「折入って一生の願いがある。真弓殿、聴いてくれまいか」と続けました。
「…………」
「外ではない、真弓殿にはあの通り立派な許婚の夫があり、私のような者が、どんなに思ったところで末始終添い遂げられる筈も無い」
「あれそんな事は――」
「黙って聴いておくれ――せめては、後の思い出に、その優れて美しい唇の跡を、口紅で紙へ捺して私にくれまいか」
「まア」
「半沢氏は、やがて真弓殿の身体も心も自分のものにするだろうが、私…

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