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芳年写生帖
よしとししゃせいちょう
作品ID56101
著者野村 胡堂
文字遣い新字新仮名
底本 「野村胡堂伝奇幻想小説集成」 作品社
2009(平成21)年6月30日
初出「オール読物」1938(昭和13)年3月
入力者門田裕志
校正者阿部哲也
公開 / 更新2015-09-08 / 2015-08-13
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

絵師の誇り

 霖雨と硝煙のうちに、上野の森は暮急ぐ風情でした。その日ばかりは時の鐘も鳴らず、昼頃から燃え始めた寛永寺の七堂伽藍、大方は猛火に舐め尽された頃までも、落武者を狩る官兵の鬨の声が、遠くから、近くから、全山に木精を返しました。
「今の奴、何処へ逃げた」
「味方を四五人騙し討ちに斬って居るぞ。逃してはならぬ奴だ」
「まだ遠くへは行くまい」
「見付かったら、朋輩の敵、一と太刀ずつ斬るのだぞ」
 背負太刀、ダン袋、赤い飾毛をなびかせた官軍が五六人、木立を捜り、藪を分けて鶯谷の方へ降りて行きます。
 その背後から、物の影のように現われたのは、彰義隊士日下部欽之丞、二十四五の絵に描いたような美男ですが、軽傷を受けた上、幾人か斬った返り血が、乱鬢と、蒼い頬と、黒羽二重を絞った白襷に反映して、凄まじさというものはありません。
「――――」
 不敵な舌鼓を一つ、四辺を見廻した欽之丞は、又も近づく人影に驚いて、木立の蔭に身を潜めました。
「畜生ッ、――俺は怪しい人間じゃねえ」
 血の臭いに酔って、無暗に吠え付く犬を叱り乍ら、桐油をすっぽり冠って、降りしきる細雨の中をやって来たのは、絵師の月岡米次郎こと、大蘇芳年の一風変った姿です。
 明治元年五月十五日の夕刻。
 その時芳年は三十歳、御家人の子に生れて武士の血を享けた筈ですが、月岡雪斎に養われ、菊池容斎、葛飾北斎の風を学んで、心も姿もすっかり町絵師になり切って居りました。
 浅葱の股引に草鞋がけ、桐油に上半身を包んで、目ばかり出した風体は、腰の矢立てと懐の画帳が無かったら、葛飾在から来た水見舞と間違えられるでしょう。
 油のような生温かい雨が降るのに、芳年の身体は、ガタガタ小刻みに顫えて、時々はしゃっくりをして居ります。その上足許も不確かで、ヒョロヒョロと行っては、ぬかるみに足を取られて、泥の中へヘタヘタと坐ったりしました。
 そのくせ、藪の中や道の上に、斬られて死んでいる死骸を見ると、彰義隊であろうと官兵であろうと一々覗いて、その相好と、歪んだ姿態を見極めずには居られなかったのです。
「ひどい傷だが、――仏様のような穏かな顔をして居る」
 そんな無事な死顔は、芳年の興味を引かなかったのでしょう。
「これは凄い」
 時々は死体の前に踞んで、懐から出した半紙横綴の帳面に矢立の筆を抜いて――細雨をかばい乍ら、写生の筆を走らせました。
 不意に――
「居たぞ居たぞ」
 バラバラと押っ取巻く官兵、ギラリギラリと幾条かの刃が芳年の眼に焼け付きました。
「あッ、お許し」
 驚き騒ぐ芳年、桐油を引き[#挿絵]られて襟髪を掴まれたまま、二つ三つ小突き廻されます。
「何者だッ、うぬッ」
「お許し、お許し下さりませ。私は怪しい者じゃございません」
 行儀の悪い猫の子のように摘み上げられた芳年は、意気地無くもガタガタ顫え乍ら、両手を合せて…

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