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十字架観音
クルスかんのん
作品ID56105
著者野村 胡堂
文字遣い新字新仮名
底本 「野村胡堂伝奇幻想小説集成」 作品社
2009(平成21)年6月30日
入力者門田裕志
校正者阿部哲也
公開 / 更新2015-08-10 / 2015-05-24
長さの目安約 29 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「あら松根様の若様」
「――――」
 恐ろしい魅力のある声を浴せられて、黙って振り返ったのは、年の頃二十三四、色の浅黒い、少し沈鬱な感じですが、何となく深味のある男でした。
 不意に呼びかけられて、右手に編笠を傾げるうちにも、左手は一刀の鯉口を、こう栂指で押えていようといった嗜みは、敵持ちか、要心深さがさせる業か、とに角容易ならぬ心掛の若者です。
「余吾之介様――ではいらっしゃいませんか」
「お前は?」
「秋、乳母の元の娘の秋でございます」
 嫣然とした年増、隔てもなくニッコリすると、桃色の愛嬌が、その辺中へまきちらされそうな女でした。
 余吾之介はその魍魎をかきのけるように、思わず二三歩引き退きました。精々二十二三、年増といっても、余吾之介より一つ二つ若いでしょう、その頃から流行りはじめた派手な模様の幅の存分に広い帯を少し低くしめて、詰め袖の萌えでたような鮮やかな草色を重ね、片頬をもたらせるように品を作ると、ほのかな靨が、凝脂の中にトロリと渦をまきます。
「お、なるほどお秋か、久しぶりであったな」
「お詣りでいらっしゃいましたか」
 浅草観音の仁王門をでたところへ声をかけられたのですから、これは間違いもなくお詣りです、まだ奥山に見世物も玉乗りもなかった頃――
「左様」
「お立寄り下さいませ、秋の家へ」
「さア」
「母がどんなに喜びますでしょう」
「この近所か」
「ツイ其処、ほら、見えるでしょう」
 少しぞんざいな口をきいて、お秋はよりそうように伝法院の裏の方を指しました。桃色真珠のように、夕陽に透いてキラキラと光る指を見ると、目当ての家などは何んでもよかったのでしょう。
 二人はそのまま田原町から蛇骨長屋へ、言葉少なにつれだって行きました。
 よく磨いた格子のなかには、御神灯がブラ下って、居間の長火鉢の上には、三味線が二挺――それを見ると、余吾之介は二の足をふみましたが、此処まで来るとお秋の方が帰してはくれません。
 お秋はその頃江戸の町に散在していた、町芸者の一人だったのです。
「元は?」
 座もきまらぬに、余吾之介は、うろうろ四方を見廻しております。
「母はあれにおります、余吾之介様」
 指した方には、ささやかな仏壇。
「何? 死んだのか」
「え、達者でいるとは申しませんでした、待っているとは申上げましたが、ホ、ホ」
「それは」
 余吾之介はそれっきり苦笑いを噛み殺しました。騙されて此処までつれこまれたには相違ありませんが、お秋の悪戯っ娘らしい狡そうな忍び笑いを見ると、腹をたてるのも馬鹿馬鹿しかったのです。
「それでも母は、死ぬまで申し暮しておりました。余吾之介様はお見かけは優しいが、お家中でも名誉のお腕前だから、キット悪人共に思い知らせて下さるに違いない――と」
「――――」
「最上のお家を取潰したのも、御先代が怪しい御最期を遂げられたのも、み…

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