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かんかん虫は唄う
かんかんむしはうたう
作品ID56155
著者吉川 英治
文字遣い新字新仮名
底本 「かんかん虫は唄う」 吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年9月11日
初出「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号
入力者門田裕志
校正者トレンドイースト
公開 / 更新2017-06-01 / 2017-05-17
長さの目安約 187 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

木靴

「食えない者は、誰でもおれに尾いて来な。晩には十銭銀貨二ツと白銅の五銭玉一ツ、みんなのポケットに悪くねえ音をさせてやるぜ」
 かんかん虫のトム公は、領土の人民を見廻るように、時々、自分の住んでいるイロハ長屋の飢餓をさがし歩いた。
 彼は、貧民街の同胞たちから、長屋のプリンスの如く人気があった。事こころざしと違って、二年や三年食いはぐれて見ても、外国のようで日本のようで、金儲けで埋まっているようで、金を摺らせる坩堝のようで、得体のわからない貿易港から、ふしぎにもよく仕事のアナを探って来る彼は一種の天才だった。
「おじさん、労働したことがないって言ったね」
「まったく経験がないんです、勤人なんてものは、落魄れると実に困りものだなあ。なかなか二度とは雇口がないし、家族はみんなあんなだし……」
「悄げなさんな、お天陽さまが出るうちは、心配はねえッてことさ」
「助かりますよ、今日から仕事があれば。――だが、僕にできますかな」
「のみこんでるよ」
「一つ、よろしく」
「だが、おじさん、帽子の縁を、鼻まで引ッ張ったり、女が来ると、下を向くのだけはよしねえ」
 今朝の彼の同伴者は、イロハ長屋へ落ちて来てからまだ間のない四十前後のよく肥ったカイゼル髯のある男だった。大人しく官吏でいればいいものを、開港場のばか景気にそそられて、健気な発奮をしたため、立志伝の逆をやり遂げてしまったというのが彼の述懐であった。
 十四のトム公は、生活力をスリ減らした四十男をしりえに連れて、ぽかぽかと木靴を躍らして歩いた。矮短な体をズボン吊で締めて、メリケン刈の頭へ蟇の疣みたいに光る鳥打帽を乗っけている。
 彼のいちばんお花客先は、横浜の船渠会社であった。まだ菜っ葉いろの職工さえその門に見えないうちに、全市のかんかん虫は煙のように高い煉瓦塀の下に蝟集する。わらじ、ボロ靴、ゴム足袋、木靴、洋装、和装、裸装、あらゆる労働的色彩が睡眠不足な蠢動をしている。女は女でかたまり、男は男でかたまっている。鉄の門には、まだ朝霧がふかい。結核性な匂いをもつ青白い瓦斯燈が、ほそい眼をして、いつもそこに簇る夥しい求食者の群を見下ろしている。
「きょうは百二十人、百二十人」
 前のめし屋のランプの影から、やがて二、三人編上靴を穿いたのが出て来て、こういう時は仕事のある福音だった。
 しかし、三分の一は、ハネをくって帰った。落伍者はたいがい労働にたえそうもない病人や老人だった。ほかへ行っても、ハジかれる率の多い者にきまっていた。
 トム公には、あぶれて帰る人たちの執着がわかった。大人になったら、おれはかんかん虫の指揮者になりたい、病人や老人はあぶれさせないようにしてやる、と彼はポケットの中で握り拳を固くした。
「親方」
「なんだ、トム」
「この人をたのむよ」
「ほ、お髯さんか。立派なもんだな」
「官員さんだもの」
 …

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