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希臘十字
ぎりしゃじゅうじ
作品ID56171
著者高祖 保
文字遣い新字旧仮名
底本 「高祖保詩集」 現代詩文庫、思潮社
1988(昭和63)年12月20日
初出「希臘十字」椎の木社、1933(昭和8)年8月
入力者八巻美恵
校正者浜野智
公開 / 更新2014-03-16 / 2014-09-16
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

Kalokagathia
「――宇宙は、単にタアオラの殻にすぎない」(ゴオガン)

一と夜。あらしの怒号が落ちてきた。

この湖中に、一隻の汽船が沈められた。


 朝。わたしは見た。マストだけが湖面に二つの手をさしあげてゐる。それは、わたしの双の手に肖て、空な足掻きを仕つくして、倦い厳粛のしづもりに返つたといつたありさま。

 けふも湖のほとりにあつて、追はれるもののごとく、右顧左眄しながらわたしは思ひ索める。二本のマストは微風を呼んで、湖面に二個の波紋を放つてゐる。あの下に、汽船はとらへ難い空を追ひながら、青い睡りを貪つてゐるであらう。それに似て索めるものは遠く[#挿絵]かに捉へがたい。竟にそれは何であらう。むなしくうち顫ふ、掌とゆびと。ひと日は思惟の彷徨につかれる。

 湖の眼はこの二本のマストのほかに何もない。それは神秘を麾くトランシットに似たものである。ここからわたしは、あなたの眼のなかに澄んだ死海をみる。あなたの掌のうちにあるカロカガテイァを! それらのものは[#挿絵]かに遠い。とらへがたい冷酷な距離よ。だが、おそらく思惟の犂のひとかへしは、この通俗な世界のかなの神秘を発掘するより首まるのだ。通俗は普遍のなかに、金鉱のやうにひそんでゐる。もし、あの神秘が地球儀のなかに眠つてゐるとすれば……

 夕焼けのそらに、幾すぢの河が尾を曳いてゐる。
 マストは暮れる。金星をいただく湖水の上で。
 いまは詞もなく、報らせもない。ただゆるぎない、無辜のひととき。微粒の砂に没するひかがみは、湖水のふかさを超えて土のふかさを知る。それは通俗の木に萌した神秘の芽であらう。これは誰に剪られ、誰に踏み蹂られるうれひすらもない。
 そこに、夥しい通俗のひかりよ!
 さうして、おお! 神秘の発芽よ!


希臘十字
 日は亭午。――翼のごとく汝の双手をひらけ。而して、彳て。希臘十字にかげを曳かむ。

  ★

 聖地の門を旋りながら、夜となく白日となく、蜜蜂よ。いつか門は十字に閉され、花々は霜に凍えた。蜜蜂よ。いかにおまへの翅が黄金の燦きにひらかれるときも、そこには展くによしなく、匂ふに術もない、空な影ふかいうれひのみ。このとき、訪へよ、蜜蜂よ、――もし神あらば燈火をかゝげよ、と。

  ★

 門に青錆びた閂のいたさ。十字にかけた罪障の烙印……

  ★

 聖水盤が匂ふ。暁闇のなかで。
 希臘十字にかたどつた星。槓桿の星。素馨の花と音楽。悠遠なパントマイムのをはり。
 その下から、郊外の一番電車が睡りの歌を撒きちらす。

  ★

 傷痕。――それに蝟集する歌ごゑ。華やぐ疼痛の歌。歌に攀ぢのぼる射手座、雙女宮。そこから夜がおりる。
 巨大な風車がアルコォルのやうに廻る。すると、翅のある時間が目にみえない素迅さでそのうへから飛びちる。
 美の司祭者、夜よ。わたしはあなたの中…

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