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私の歩んだ道
わたくしのあゆんだみち
作品ID56238
著者蜷川 新
文字遣い新字新仮名
底本 「天皇 誰が日本民族の主人であるか」 長崎出版
1988(昭和63)年11月20日
入力者Democrat
校正者川山隆
公開 / 更新2014-11-14 / 2014-10-14
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一 子供時代の教育と精神

 私は、明治六年に生まれた。そうして七日ののちに、父をうしなった。私は、父親を知らない人間である。
 私は、駿河の国(静岡県)の海岸の袖師で生まれた。興津の隣り村である。私は生まれてまもなく、母にいだかれて東京に移った。母の生家は、徳川時代から神田明神下にあった。母の実父、すなわち私の祖父は、播州(兵庫県)林田の旧藩主であったが、まだ生きていたのであった。母は、その生家の建部家をたよって、東京に出たのである。
 私は、一家が無録移住をした駿河で生まれたのであり、生まれながらにして、逆境におかれた不運な一人間であった。
 当時の東京は、おごれる薩長人をはじめ、各藩から集まりきたった勝利者の占領地となった直後であった。すなわち、革命後の混乱の社会であった。
 私の母は、やがて麹町三番町の実弟、坪内家の邸内に移ることになった。私はそこで、十五歳まで、母とともに生活した。私は七歳以後は、当時から有名な番町小学校に学んだが、学問、思想、行動は、先生から模範少年としてほめられていた。ただし、町の人びとには、いたずら者として、市ヶ谷見附から九段にいたる間の人びとからは、憎まれはしなかったが、評判されていた。
 私はそのあいだに、漢学を清田[#挿絵]先生に学び、英語を無名の先生に習い、また特に数学の先生について、代数や算術を学んだ。私の母は、親切に私を養育した。「一大人物となるよう。」にと、母はいつも私をはげました。母は私に、わが家の昔からの歴史を、よく説ききかせた。また、維新当時の事情を、よく話された。
 私が五歳のときに、空中にものすごい帚星があらわれたが、母は深夜、私を庭につれだして、そのおそろしい大きな星を指さし、「あれが、西郷の怨霊だと、みんなは言っている。」と、私にきかせた。私は、まだほんの五歳の子どもであったが、永年、かき消すことのできないほどの強い感じを、そのときに受けた。七十四年をへた今日でも、その大きな、かがやいた彗星とその場面とは、私の眼に映っていて、消えさらない。
 私はある日、母につれられて、小石川の大学植物園へいった。十歳ぐらいの時であったろう。母は私にむかって言った。「ここは、蜷川家の下屋敷であった。明治元年三月から十月までのあいだ、一家は二人の旧臣と数人の下男下女とともに、この屋敷に住まっていた。その五月には、彰義隊の敗兵数名がこの屋敷に逃げこんできた。一家は、今夜こそは官軍の刃にかかって、皆殺しにされるだろうと心配もしたが、覚悟もきめた。しかし、敗兵はどこにか去って、一家は無事だった。しかしその後、ある夕刻に、父も母も中二階で夕食をともにしていた時に、山上から、突如、一発の弾丸が飛んできた。その弾丸は、座敷のかもいにあたった。父母は食事をやめて、階下におり、静かに山上のようすをうかがって見たが、なんの異変も見られ…

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