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日本アルプスの五仙境
にほんアルプスのごせんきょう
作品ID56269
著者木暮 理太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山の憶い出 下」 平凡社ライブラリー、平凡社
1999(平成11)年7月15日
初出「中学生」1922(大正11)年8月
入力者栗原晶子
校正者雪森
公開 / 更新2014-07-28 / 2016-05-22
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 これから私が茲に述べようとする日本アルプスの仙境というのは、其処に仙人が住んでいたとか、又は現に住んでいるらしいとかいう訳で、仙境と称するのでは勿論ありません。単に仙人でもいそうな所だというだけであって、景色はすぐれていても、霧を啖い霞を吸って生きて行く術を知らない人間には、たかだか一月位しか住めない所ばかりです。
 日本アルプスの中で景勝の地といえば、南北を通じて恐らく上河内(上高地)に及ぶ所はありますまい。第一に道具立が揃っている。四時不断の雪渓を抱擁する峨々たる高峰もあれば、絶えず噴煙して時には灰を降らし熔岩を押流す活火山もある。おそろしく水の色の綺麗な渓流もあれば、静に山の影をひたして藻の花の美しい池もある。小鳥の棲家にふさわしい森林もあれば、滾々と湧き出しつつ人の来り浴するを待つ温泉もある。そして比較的楽に其処へ行かれることが、この日本アルプスの一大仙境であった上河内を人間臭い所にしてしまったのです。鴉が鳴き雀が飛ぶようになっては、如何に景勝の地でも、仙人ならば目を閉じ鼻を摘んで、これはこれはと逃げ去ることと想います。上河内が仙境であったのは最早昔の夢となってしまいました。
 これと似たような運命に陥りつつある場所が尚お他に一ヶ所あります。夫は佐良峠の南に続く五色ヶ原です。立山の弥陀ヶ原、祖父岳の雲ノ平、それとこの五色ヶ原とは、共に日本アルプスに於ける三大高原であって、しかも同じように熔岩台地であり、孰れも最高二千四百米以上に達しています。中にも五色ヶ原は多量の残雪と、豊富で且つ美しい高山植物と、雄大な環境とに依って、天外の楽園と称せられたのも決して不当ではありませんでした。森林こそ欠けているが、清冷な雪解の水を湛えた大小幾十の池の面には、山と雲との影が綾に織り出されたり消されたりして、其間を縫って銀光沢を帯びた青緑色のヤンマの一種が梭のように飛び交うている。蒼黒い偃松の叢立を島のように取り巻いた鮮緑の草原を飾る白山小桜や小岩鏡の紅と、珍車や白山一華の白と、千島桔梗や虫取菫の紫とは、群落をなした多くの花の中でも特に目立って美しい。同じ仙境というても此処は銀髯を垂れた仙人の住む所ではなくして、霓裳羽衣の女仙が徐ろに蓮歩を運ぶ花園と称した方が適当であると想われました。併しこの楽園も節制のない登山者に蹈み蹂られ、殊にこの頃山上に天幕生活を試る者がある為に、偃松が伐り荒らされ食料品の空箱などが所嫌わず放り出された儘になっているので、仙人ならずとも心ある人は眉を顰めずにいられません。
 斯様な次第ですから、上河内と五色ヶ原とは、日本アルプスの仙境から除外することにしました、景色が劣っている為ではなく、余りにも人臭い土地と化してしまったからです。実をいうと真に仙境と称す可き所は、反て日本アルプス以外の地に多いのでありますが、夫等の記事は他日に譲って、ここには…

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