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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
副題021 雪の精
021 ゆきのせい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「銭形平次捕物控(八)お珊文身調べ」 嶋中文庫、嶋中書店
2004(平成16)年12月20日
初出「オール讀物」文藝春秋社、1932(昭和7)年12月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2017-08-12 / 2017-07-17
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 昼頃から降り続いた雪が、宵には小やみになりましたが、それでも三寸あまり積って、今戸の往来もハタと絶えてしまいました。
 越後屋佐吉は、女房のお市と差し向いで、長火鉢に顔をほてらせながら、二三本あけましたが、寒さのせいか一向発しません。
「銭湯へ行くのはおっくうだし、按摩を取らせたいにも、こんな時は意地が悪く笛も聞えないね」
「お前さん、そんな事を言ったって無理だよ、この雪だもの、目の不自由な者なんか、歩かれはしない」
 そんな事を言いながら、ちょうど三本目の雫を切った時でした。ツイ鼻の先の雨戸をトン、トン、トンと軽く叩く者があったのです。
「おや――」
 お市は膝を立て直しました。宵とはいってもこの大雪に、往来の方へ向いた、入口の格子を叩くならまだしも、川岸へ廻って、庭の木戸から縁側の雨戸を叩く者があるとすると、全く唯事ではありません。
「どうしたんだい」
 と、佐吉。
「雨戸を叩く者があるんだよ。こんな晩にいやだねえ、本当に」
「開けてみな、貉や狸なら、早速煮て食おうじゃないか。酒はまだあるが、肴ときた日には、ろくな沢庵もねえ」
 佐吉は少し酔っているせいもあったでしょう。爪楊枝で歯をせせりながら、太平楽を極めますが、いくらか酒量の少ない女房のお市は、さすがに不気味だったとみえて、幾度も躊躇いながら、それでも立上がって、雨戸へ手を掛けました。
 同時に、もう一度トン、トン、トンと軽く叩く音、続いて若い女の声で、
「ここを開けて下さいな――」
 と、大地の底から響くようなか細い声が、ハッキリ雨戸の外に聞こえるのです。
「誰だえ」
 お市は心張棒を外すと、思い切ってガラリと開けました。
 角兵衛獅子の親方を振り出しに、女衒の真似をやったり、遊び人の仲間へ入ったり、今では今戸に一戸を構えて、諸方へ烏金を廻し、至って裕福に暮している佐吉の女房です。鬼の亭主に鬼神で、大概の物に驚くような女ではありませんが、この時ばかりは全くギョッとしました。
 外は真っ白――。
 人間はおろか、貉も狸もいる様子はなかったのです。
 好い加減に積った雪は、狭い庭を念入りに埋めて、その上に薄月が射しているのですから、その辺には、物の隈もありません。庇の下はほんの少しばかり埋め残してありますが、物馴れたお市の眼には、そこに脱ぎ捨ててある、沓脱の下駄までハッキリ読めるのです。
「誰も居はしない。変だねえ」
「そんな事があるものか、今も人の声がしていたじゃないか」
「そう言ったってお前さん、猫の子もいないよ」
 お市はそう言いながら、戸袋に左手でつかまったまま、まだサラサラと降る雪の中へ、何の気もなく顔を突き出したのでした。
「あッ」
 恐ろしい悲鳴。
 驚いて佐吉が立上がった時は、お市の身体は、もんどり打って、雪の庭へ――、真っ逆さまに落ちてしまったのでした。
「何て間抜けな事をす…

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