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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
作品ID56360
副題031 濡れた千両箱
031 ぬれたせんりょうばこ
著者野村 胡堂
文字遣い新字新仮名
底本 「銭形平次捕物控(八)お珊文身調べ」 嶋中文庫、嶋中書店
2004(平成16)年12月20日
初出「オール讀物」文藝春秋社、1934(昭和9)年8月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2018-06-14 / 2019-11-23
長さの目安約 35 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 深川の材木問屋春木屋の主人治兵衛が、死んだ女房の追善に、檀那寺なる谷中の清養寺の本堂を修理し、その費用三千両を釣台に載せて、木場から谷中まで送ることになりました。
 三千両の小判は三つの千両箱に詰められ、主人治兵衛の手で封印を施し、番頭の源助と鳶頭の辰蔵が宰領で、手代りの人足ども総勢六人、柳橋に掛ったのはちょうど昼時分でした。
「悪い雲が出て来たね、鳶頭、この辺で夕立に降り込められるより、一と思いに伸しちゃどうだろう」
 番頭の源助はそう言いながら、額の汗を拭き拭き、お通の水茶屋の前に立ちました。
「この空模様じゃ筋違までも保ちませんぜ。お通は仕度をしているはずですから、ともかく晴らしてから出かけましょう」
 辰蔵は釣台を担いだ人足を顎で招くように、お通の茶屋の暖簾をかき上げました。
 同時に、ピカリ、と凄まじい稲光り、灰色に沈んだ町の家並が、カッと明るくなると、乾ききった雷鳴が、ガラガラガラッと頭の上を渡ります。
「あれッ」
 界隈で評判の美しいお通は、――いらっしゃい――と言う代りに、思わず悲鳴をあげてしまいました。赤前垂、片襷、お盆を眼庇に、怯え切った眼の初々しさも十九より上ではないでしょう。
 ちょうどその時、――
「喧嘩だッ」
「引っこ抜いたぞ」
「危ないッ、退いた退いた」
「わッ」
 という騒ぎ。両国広小路の人混みの中に渦を巻いた喧嘩の輪が、雪崩を打って柳橋の方へ砕けて来たのでした。
「どうした、鳶頭」
「喧嘩ですよ、浪人と遊び人で」
「荷物が大事だ、中へ入れろ」
「へエ――」
 葭簀張の水茶屋で、喧嘩にも夕立にも、閉める戸がありません。三千両の釣台はそのまま土間を通って磨き抜いた茶釜の後ろ、――ほんの三畳ばかりの茣蓙の上に持込まれました。前から予告があって、時分時には春木屋の荷物が休むことになっていたので、お通も、お通の母親も、これは文句がありません。
 もっとも釣台を担ぎ込んだ一と間は、すぐ神田川の河岸っぷちで、開け放した窓から往き交う船も見えようという寸法ですから、涼みにはまことに結構ですが、物を隠すにはあまり上等の場所ではありません。
 鳶頭の辰蔵は、釣台の上に掛けた油単を引っ張って、一生懸命、千両箱を隠すと、番頭の源助はその前に立ち塞がって、精いっぱい外から見通されるのを防ぎました。
 続いて、もう一と打、二た打、すさまじい稲光りが走ると、はためく大雷鳴、耳を覆う間もなく篠突くような大夕立になりました。
 向う側の家並も見えないような雨足に叩かれて、ムッと立昇る土の香、――近頃の東京と違って電気事業も避雷針もない江戸時代には、びっくりするような大夕立が時々あったということです。
 まだ六月になったばかり、暑さは例年にないと言われましたが、それにしても、真昼の大夕立は滅多にないことでした。
 お蔭で素っ破抜きに始まった大喧嘩も流れ…

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