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可哀想な彼女
かわいそうなかのじょ
作品ID56466
著者久保田 万太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆99 哀」 作品社
1991(平成3)年1月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2014-01-27 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 初七日の朝、わたくしは子供に訊いた。
『お前、おい、ママの顔をおもひ出すことが出来るか?』
『出来るよ。』
『どんな顔をおもひ出すことが出来る?』
『機嫌のいゝ顔だね。』
 子供のさういつたやうに、わたくしにも、いまは亡きかの女の機嫌のいゝ顔しか感じられないのである。……といふことは、かの女の去つたいま、わたくしに、素直な、やさしい、もの分りのいいかの女しか残つてゐないのである。……しかも、この一二年、わたくしのそばから、さうしたかの女はいつとはなしそのすがたを消してゐたのである。……さうしたかの女を完全にわたくしは失つてゐたのである。……
『だつて、ママ、体がわるくなつてからは、始終お前に小言ばかりいつてゐたぢやアないか?』
『…………』
『いつにも機嫌のいゝ顔なんかみせたことがなかつたぢやアないか?』
『…………』
『だのに、どうして?』
『だつてしやうがない。』
 子供はこたへた。……急にわたくしの目からなみだが溢れた。
 可哀想なかの女。……どうして、かの女は、その素直だつた、やさしかつた、もの分りのよかつたかの女を、自分から否定しなければいけなかつたのか?
 体のわるくなつたことによつてさうなつたのでなく、さうなつたことによつてかの女の体はわるくなつたのである。……わたくしは知つてゐる。……
 結婚して十七年、かの女にとつて最も幸福だつたのは、震災後の、日暮里に於けるはじめ五六年の生活だつたらう。
 それまで、わたくしたちは、親たち及び親たちの家族とゝもに一つ屋根の下に住みつゞけた。……といふことは、舅、姑、小姑たちの目を身辺に感じつゝかの女は、四年あまりといふもの、肩身狭く生活しつゞけたのである。
 親に早くわかれ、姉の手一つに育つたかの女にとつて、どんなに、辛い、心細いことだつたらう。
 が、かの女は、決してその辛さ心細さをどこにむかつて訴へなかつた。……一人その気苦労の無理をとほしつゞけた。……その、舅の、姑の、そして小姑たちの目を、右にひだりにそらしつゞけつゝ、かの女の眉はつねに明るかつた。
 震災を機会にわたくしたちは親たちから独立した。同時に、それまでの、一生去るまいと思ひきはめてゐた町中から、敢然、わたくしたちは去つた。……すなはち日暮里にわたくしたちだけの生活をもつたのである。
 わたくし、かの女、子供、女中。……そのとき子供は三つだつた。
 欠さずわたくしは、三度の食事をかの女と子供とのまへでした。わたくしの部屋ときめた二階八畳の机のまへで、わたくしは、わたくしの一日の大半をくらしたが、でないときは、庭に出て、雲の往来をながめたり、木の芽、草の芽の生長をみまもつたりした。それは、わたくしの、それまでにもつた三十幾年といふ月日のなかにあつて、それこそ夢にもみたことのないしづかな生活だつた。……さうしたとき、子供は、縁側で、女中を相…

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