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還暦反逆
かんれきはんぎゃく
作品ID56467
著者久保田 万太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆34 老」 作品社
1985(昭和60)年8月25日
初出「東京新聞」1949(昭和24)年11月26日~28日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2014-02-14 / 2014-09-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 去年の大晦日である。
 ――あなたも、いよ/\、来年は還暦ですね。
 と、ある人にいはれた。
 ――さうですね。
 と、ぼくは、それに対して、人ごとのやうにこたへた。
 ――だつて、さうなんでせう?……六十一におなりになるんでせう、来年?……
 と、相手は、あきらかに、そのこたへに満足しなかつた。
 ――数へ年ならね……
 ぼくのこたへはしかし、どこまでも素つ気なかつた。
 が、あとでこれを知つた、還暦あるひはホンケガヘリといふ奴は、生れた年のエトとおなじ年のエトのふたゝびまはつて来ることで、かならずしも、だから、その年齢の、満、未満にはかゝはらないのだといふことを……
 ぼくはいま/\しくなり、さうか、それならと、すなはち、

着ぶくれの
おろかなるかげ
曳くを恥づ

 といふ句をつくり、

年寒し
うつる空より
うつす水

 といふ句をつくつて、みづから嘲り、これに“還暦とや”といふ“前書”をあたへた。……あとの句は、薄暮たま/\海岸橋をすぎ、しづかに海に入る滑川の冷めたい水のひかりをみたときできたのである。

         *

 海岸橋といへば、これも矢つ張、去年のことだつたが、海岸橋のそのすこしさきを停車場のはうへ切れた松並木の途中、一の鳥居の近くで、あるとき、髪の真つ白な、頬のゆたかな、きはめて品のいゝ老女に、
 ――失礼でございますが、あなた?……
 突然、ぼくは名まへをよばれたものである。
 勿論、ぼくは、しかる旨をこたへて立留つた。そして、改めて、その顔をみた。……鎌倉在住の、とくにそれも、そのあたりに住む人であらうことは、戦争以来の風俗の、腰ッきりのみじかい上つ張を着、片手に買物籠を下げた恰好によつて一[#挿絵]目で知れた……
 ――御記憶ないかも知れません。
 と、その人は、しづかに、しかし歯切れよく、
 ――わたくし、以前、浅草の、お宅の御近所にをりましたHでございますが……
 ――あゝ、Hさん……
 ぼくは思はずさういつて、そのまゝぼくの口辺の綻びるのを感じた。……“Hでございますが……”と、さういはれた途端、あまりに早く、あまりに直ちに、わたくし自身、その人の誰だつたかを思ひだすことができたから……
 ……ぼくは、そのHさんと、十五分あまり立話をした。
 で、どんな話をしたかといへば、その内容は、ぼくとそのHさんとだけにしかわからないことばかりだつたといへばいゝ。……四十四五年まへの浅草に関しての、それもその、ぼくとHさんとの間にだけかぎられた知人たちのうはさばかりをしたのだからである。……だから、ぼくは、それをくはしく読者につたへようとは思はないし、また、つたへてもはじまらない。ぼくは、たゞ、Hさんが、ぼくの生れ、そして育つた浅草での、田原町といふ町に程近い北東仲町……いま“区役所横町”とよばれてゐる通りの一角に住んでゐて…

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