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田崎草雲とその子
たざきそううんとそのこ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「吉川英治全集・44 醤油仏(短編集一)」 講談社
1970(昭和45)年4月20日
初出「文藝春秋 夏期増刊号」1932(昭和7)年
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2014-04-09 / 2014-09-16
長さの目安約 41 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

梅渓餓鬼草紙の中に住む
一九先生に会うの機縁

 山谷堀の船宿、角中の亭主は、狂歌や戯作などやって、ちっとばかり筆が立つ。号を十字舎三九といっていたが、後に、十返舎一九と改めて、例の膝栗毛を世間に出した。
 それが馬鹿な売れ行きをみせて、馬琴物も種彦物も影をひそめてしまったので、一九は、すっかりいい気持だった。
 待乳山が近い二階の北窓に、文人ごのみの机をすえて、よく鼻毛など抜いていたが、この頃、毎日のように、ぴイぴイ泣く、近所の子供の声が、神経にさわってならないので、女房が上ってきた所を、いきなり呶鳴りつけた。
『てめえの耳は、ぬか袋か。あれが気にならねえのかよ。なんでえ、あの餓鬼ゃあ、きのうも今日も、まんまー、まんまー、と雨垂れみてえに、朝から晩まで、泣きいびってやがる。なんとかして来い』
『よその子を、どうなるものかね。それに、御浪人じゃないか。うっかりした事を、いえやしない』
 ふくれながら、女房は、外へ出て行ったが、戻ってくると、慌てて、大きな塩握飯を二つこしらえて、前掛の下に、小皿を隠して出て行った。
 ひどい裏店で、一軒一軒が生ける餓鬼草紙の絵だった。ドブ板さえ焚き付にされている狭い路地を、女房は、何気なく通りかかった振りをして、雨垂れ泣きの洩れる台所から、
『おや、坊ッちゃま、どうなさいましたえ』と、覗きこんだ。
『あれ、これが、欲しいんでございますか。これは、坊ッちゃまの食がるような物じゃございませんよ。オヤ、お泣きなさいますね。じゃ、置いて参りましょう。玩具になさいましよ』
 と、握飯の皿を置いて、大急ぎで帰ってしまった。
 画家の田崎梅渓と妻女のお菊は、奥で――といっても、六畳一間、やぶれ障子と、屑屋も逃げるような雑器のほか、何物もない。――暗然と、顔を見あわせて、
『ああ、美味そうな……』
 と、握飯の皿へ、本能的にしがみついて、音をたてて食べているわが子、まだ、五歳の格太郎を、夫婦で、じっと見つめていた。
 梅渓は、眼が熱くなった。お菊も泣いた。
『これだな、人間を邪悪にするのも、偉くするのも。この試練だ』
 自分は、男泣きに、泣いているのだ。しかもこの七日程、食物らしい物は何も入っていない胃袋は、格太郎の指にくッ付いている飯粒を見ると、それを、奪っても食いたいような苦悶を起している。腸も胃も、暴れ廻って、吐き気のような生唾を感じるのだった。
 母性愛と、女のたしなみとに、つつましく、ただ涙の眼で、見まもっているお菊であっても、恐らくは、自分と同じであろう、と梅渓は思った。
 数日後。お菊の兄の松井益太郎がきて、一息つけたので、梅渓は、
『一言、礼に』
 と、いって一九の家へ出向いた。
 近所に、貧乏画家が住んでいるとは聞いているが、訪ねられて、会ってみると、一九は怖ろしい圧迫を感じた。衣服などは、垢じみているが、貧乏臭い影などは微…

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