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日本名婦伝
にほんめいふでん
副題谷干城夫人
たにたてきふじん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「剣の四君子・日本名婦伝」 吉川英治文庫、講談社
1977(昭和52)年4月1日
初出「主婦之友」昭和16年1月号~2月号
入力者川山隆
校正者雪森
公開 / 更新2014-09-27 / 2014-09-15
長さの目安約 44 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 白い旋風を巻いて「戦」が翔けてくる。――五十年めの大雪だという雪かぜと共に、薩摩と肥後の国境を越えて。
 明治十年の二月だった。
 時の明治政府へ、
「具申尋問のため」
 と唱うる薩南の健児たちは、神とも信頼している西郷隆盛を擁し、桐野・別府・篠原などの郷党の諸将に引率されて、総勢三千四百人を、二大砲隊十六小隊に組織し、
「百難道をさえぎるとも!」
 と、決死の誓の下に、上京の目的を抱いて、すでに鹿児島を立っていたのである。
 が、この熊本には、官の鎮台がある。彼等の通過をゆるすべきか拒むべきか。鎮台の意志は問題なく、
「たとえ陸軍大将であろうと、西郷はすでに閑職の人である。のみならず私兵を組織し、純然たる軍備をもって上京するなど、由々しい国憲の違反だ。正当な下意上達とは認められん」
 というに一致していた。
 また、――箇々の感情としては、
「薩南の健児に血があるというなら、熊本の男児にも鉄石の心胆がある。憂国の赤心は、彼のみのものではない」
 とも云って、各[#挿絵]、悲壮な決意を、鎮台の司令部――熊本城のひとつに蒐めていた。
 ――こうした中に、熊本の町は、十八日の黄昏れを落した。人影はおろか、いつもの灯も見えない。ただ暗い雲の吐く粉雪のけむりに全市は霏々と顫いていた。



「お支度はできましたか。もうやがて七時に近うございましょう」
 もう数日前から市民はあらかた避難し尽している。この宵、人声の聞えたのは、鎮台将校の官舎となっている士族町だけだった。
「お宅様も、お片づきですか」
「はい。まるで旅立ちのように」
 和やかな笑い声さえ聞えた。恐いとか、悲しいとか、寒いとか、そんな日頃の観念は誰の頭にもとうになかった。
 今日、鎮台からの達しには――
 婦女子、老幼、病人等ハ可相成ハ、近郷ノ縁類ヘ避難サレタシ。唯、ヤムナキ事情ノ者ト、倶ニ死ヲ厭ワザル家族ノミハ、今夕七時迄ニ鎮台内ニ引揚ゲラルベシ
 と、あった。
 鎮台の軍議は、籠城と決定らしい。良人の方針を見とどけないうちはと、将校たちの夫人は、最後まで家庭に踏み止まっていたのである。そしてわずか半日の間に、各[#挿絵]、一切の後かたづけをすますと、
「もう心残りはない。後は、良人と共に」
 と、心のひとつな婦人ばかりが結束して、頭巾や簑笠に身をつつみ、命令の時間までに、鎮台へ行こうと誘い合せているのだった。
 その中に、鎮台司令官の夫人、谷玖満子もいた。
 玖満子は、自分の邸のことといっては、何も顧みている間もなく、毎日、良人の同僚の家庭を見舞っていたが、今日はなおさら、大きな責任を感じているらしく、
「おや、与倉様の奥様が、まだこの中に、お見えにならないではありませんか」
 と自身で、少し先の門まで、様子を見に行った。
 第十三聯隊長の与倉知実中佐の夫人は、妊娠していて、折も折、臨月に近…

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