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改めて民藝について
あらためてみんげいについて
作品ID56522
著者柳 宗悦
文字遣い新字新仮名
底本 「民藝四十年」 岩波文庫、岩波書店
1984(昭和59)年11月16日
初出「民藝」1958(昭和33)年8月号
入力者Nana ohbe
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2014-03-13 / 2014-09-16
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 民藝という言葉は、仮に設けた言葉に過ぎない。お互に言葉の魔力に囚われてはならぬ。特に民藝協会の同人は、この言葉に躓いては相すまぬ。この言葉によって一派を興した事にはなるが、これに縛られては自由を失う。もともと見方の自由さが、民藝の美を認めさせた力ではないか。その自由を失っては、民藝さえ見失うに至るであろう。お互に充分警戒してよい。道元禅師は、日本曹洞宗の祖といわれるが、曹洞宗という言葉はおろか、禅宗という言葉すらも好まれなかった。一宗一派ともなれば、かえって禅を見失う危険が起ろう。禅師が支那から帰朝された最初の説法に「空手にして郷に還る」といわれたという。ある注釈書を見たら、伝教、弘法その他の宗祖は、皆万巻の経文や仏像等を携えて帰られた。しかるに道元禅師は、そんなものは後廻しにして、空手で帰って来られたのだという。こういう解釈にも、ある程度の意味はあろうが、おそらく真意はそんな外形的な事ではあるまい。「空手」を「如心」の意味にとる方が更によくはないか。ある人が禅師に、支那で何を学んで帰られたかと尋ねたら、「柔[#挿絵]心」を学んで来たといわれたという。柔[#挿絵]心は「やわらかい心」の意である。この「柔[#挿絵]心」と「空手」とは、互に通じる内容があろう。それを易しく「素直な心」といってもよい。我執に囚われて、弾力性を失った「こわばる心」となっては、仏を見失い、法を見誤る。空手にしてのみ仏からの贈物がそのまま受けられる。「空手還郷」の言葉に続いて、「故に仏法なし」といわれたという。ここが素晴らしい見方で、同じく民藝を見つめて、「民藝なし」とまでいい切る程にならねばならぬ。民藝という考えの奴隷となっては、民藝を見失う事となろう。民藝に囚われていては、かえって民藝を見損う。臨済禅師が激しく「祖に会えば祖を殺し」とか、また「仏に会えば仏を殺し」などといわれたのは、過ぎた表現とも思われて、多くの誤解を招き、また難解な言葉として迎えられもしたが、趣旨は、仏といっても仏という考えに囚われると、かえって仏を見失う事を心配された親切心から、ほとばしり出た声と見る方がよい。私は最近依頼されて『民藝四十年』という本を出版したが、四十年の修行を経た今日、この言葉への陶酔に終っては申訳ない気がする。
 もともと民藝の「民」は誰も感づくように、「民衆」の「民」や「平民」の「民」である。しかし「民」という言葉の内容を特別なものに解してはいけない。もっとも当り前な内容に受取ってよい。この「当り前」という事以上に、無上の内容はないというのが、私の真意なのである。私は近頃これを簡単に「平の者」「平の物」「平の茶」という風に種々の面で用いたい気持が強い。「平」は、当り前のものという義なのである。もっともこれにまた執すれば、「異」を好むのと五十歩百歩になる。「平のもの」とは、何にも囚われぬその…

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