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九つの鍵
ここのつのかぎ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「野村胡堂探偵小説全集」 作品社
2007(平成19)年4月15日
初出「少年時代」1949(昭和24)年1月~4月
入力者門田裕志
校正者阿部哲也
公開 / 更新2015-10-29 / 2015-09-08
長さの目安約 44 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

蜘蛛の糸

「今晩はまったくすばらしかったよ。愛ちゃんが、あんなにピアノがうまいとは夢にも思わなかったぜ。練習しているのを聴くと、ピアノというものは、うるさい楽器だからな」
「まア、お兄さん、それじゃ褒めているんだか、くさしているんだか、わからないじゃありませんか」
 狩屋三郎と妹の愛子は、日比谷音楽堂の帰り、まだおさまらぬ興奮を追って、電車にも乗らずに、番町の住居まで、歩いて帰るところでした。
「でも、演奏はまったく上出来さ、聴衆はみんなびっくりしていたよ。ベートーヴェンのソナタは少しこわいみたいだが、第二部のショパンがよかったんだ。ぼくの近所で聴いていた人たちは、まさかぼくを愛ちゃんの兄とは知らないから、――日本にもこんなに若くて、こんなにうまいピアニストがいたのかなア、多勢の外国人も来ているようだが、こんな芸術家を発見しただけでも、われわれの肩身が広い――と言っていたよ」
「まア」
 愛子は少しきまり悪そうでした。妹にお世辞を言うような兄ではありませんが、面と向ってこう言われると、さすがに口がきけなかったのです。
 狩屋愛子は十八になったばかり、新鮮で清潔で、ピンク色のコスモスの花のような少女でした。去年某新聞のコンクールを通って、一ぺんにその天才を認められ、日本楽団の大きな発見とまで言われましたが、年を越してようやく先輩や恩師の後援で、最初の独奏会を開き、新人のデビューとしては、まさに空前の成功を納めての帰りだったのです。
 兄の三郎は二十才、大学では数学をやっていますが、頭がいい上に体力が非凡で、ラグビーの選手として、学生スポーツ界に知らない者はありません。五尺七寸余りのみごとな体格と、明朗闊達な気風は、優生学上の見本にして、将来の日本人の理想型にしたいような青年です。
「お兄さんは、どうお思いになって? ほんとうに出来がよかったでしょうか、――私は新聞や音楽雑誌の批評が心配でたまらないんだけれど」
 愛子はさすがに娘らしく、そんな事を気に病んでいるようです。
「そりゃ大丈夫さ、悪口を言う奴はピアノがほんとうにわからないんだよ、――ぼくは酒を呑まないけれど、酒に酔った心もちは、ちょうどあんなぐあいだろうな、ピアノを聴いているうちに、こうボーとなって」
「まア大変ね、メチールでなきゃいいけど」
「こいつめ」
 ふたりはそんな事を言って、正月の夜空にわだかまりのない笑いを響かせました。
 夜はもう十時過ぎでしょう、雪模様の空はドンよりと頭上に押し冠さって、番町の往来は人の影もありません。
「ちょいとお尋ねしますが――」
 不意に声を掛けられて、ふたりは大きいビルディングの下に立ち停りました。
「この辺に塩谷さんというお宅はありませんか」
「サア」
 相手は外套の襟を立てて、中折の庇を目深におろし、色眼鏡をかけた若い男です。
「いや、ご存じがなきゃいいん…

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