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黄色い日日
きいろいひび
作品ID56773
著者梅崎 春生
文字遣い新字新仮名
底本 「ボロ家の春秋」 講談社文芸文庫、講談社
2000(平成12)年1月10日
初出「新潮」新潮社、1949(昭和24)年5月
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2016-04-27 / 2016-03-04
長さの目安約 51 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 垣根の破れたところから、大きな茶のぶち犬が彼の庭に這入ってきた。お隣の発田の飼犬である。なにか考えこんでいる風に首を垂れ、彼が大切にしている牡丹のところへふらふらとあるいてきたが、その根の辺をくんくん嗅ぎながら二三度廻り、また何となく縁側の方に近づいてきた。どこかで転んだと見え、脇腹に濡れた枯葉を二三枚貼りつけている。縁の前にはバケツをさかさに伏せ、その上に彼の古靴が乾してある。そこで立ち止ると、急に考え深そうな表情になって、丹念に古靴のあちこちを嗅いでいたが、束ねた紐をいきなりくわえて、靴の片方ずつを顔の両側にぶらりと垂らした。そのままでちらりと彼の方を見たようである。硝子戸の内側に座布団を何枚もならべ、その上に寝そべって、彼はそれを眺めていた。
(どうも変だ)頬杖をついたまま、彼はそう考えた。
 ぶち犬は靴をくわえたまま、彼の方から眼をそらすと、重そうに頸をふり、今来た道をふらふらと垣根の方に戻って行った。硝子戸の外の犬のいる風景は、ありありと眼に見えていて、またどことなく黄色い光を帯びていた。最後にぶち犬の尻尾が垣根の破れ口にちらりとひらめいて、靴もろとも外に消えた。
(あの垣根も早いうちに修繕しなければ、やがてぼろぼろになってしまうだろう)
 彼はけだるく身体を起しながら、垣根の方をぼんやり眺めていた。朽ちかけた竹垣だが、発田の家と彼の家の仕切りになって、往き来できないようになっていたのに、発田のおかみさんが燃料にするために引抜くから、近頃では犬が自由に出入できる隙間ができた。そのうちに人間が通れるようになるだろうし、やがては馬も通れる位になるだろう。今のところは犬だけだが、あのぶち犬は日に三四度は何となく彼の庭にやってくる。茶のぶちをつけたりして、感じのわるい犬だ。牡丹の根を掘ってみたり、捨ててあるものをくわえて持って行ったり、つまらないいたずらばかりする。この間も線の切れた電球をくわえて行ったが、あれはどういうつもりだったのだろう。先日乾しておいた彼の革財布をくわえて行ったのも、この犬にちがいない。
(しかしどうしてこんなに身体が重いのだろう?)
 身体のどこかが変調子になっていることを、彼はこの頃はっきり意識していた。とにかく身体がひどくだるくて、それに応じて気持もひどく重い。気持がすこしも動かない。ある鈍麻が彼の全部を漠然と満たしている。ものを眺めても、ただ眺めているだけで、それに働きかける意欲が全然起らない。げんに今だってそうだ。復員のとき持って帰った古靴だが、もう穿けないという程のものではない。盗られて惜しいと思うのではないが、あれば充分役に立つ靴なのだ。あのぶち犬がくわえてゆくのを、ありありと見ていながら、しかも立ち上って取戻す気持になれないのは、どうしてだろう? 犬の姿が全く消えてしまうと、彼はふといつものに似た生理的不安におそわれ…

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