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万葉集の恋歌に就て
まんようしゅうのこいうたについて
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆63 万葉(三)」 作品社
1988(昭和63)年1月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2015-02-13 / 2015-01-16
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 課題に従つて以下万葉集の恋歌に就て少し卑見を記してみる。断るまでもなく私は万葉学に就ては全くの門外漢である。古義略解等の主要な註釈書を一読したことすらない。だから実はこのやうな文章を書くのは甚だ気がひけるのである。だがまた私のやうな全く通りすがりの一読者の感想も、この古典を今日の我々のものとして、学問的専門的にではなく、常識的にうけとる上に、或は全く無用な反省ではないかも知れない。前置きはまだいくらも書きたいが管々しいから略しておいて、以下、一寸何からどう述べていいか見当のつきにくいその私の感想なるものを、思ひつくままに記してみる。
 これは万葉集の場合に限つたことではないが、凡そ歌――短歌といふものは、三十一文字のそれ自らの詩形から、私の見るところでは、主題として恋愛を取扱ふのに最も適してゐるやうに思はれる。この詩形にあつては、詩語がある音楽的な週期的な繰返しを以て、不思議に情緒に纏繞してくるやり方で、それの語意によつてよりもそれの語感の感触で、一篇のポエジイを成立たしめてゐるのである。詩歌に於ける詩語の機能が、語意によりも寧ろ語感に依存してゐる――といふのは、もとより何も短歌の場合に限つた事情ではないが、しかしまた短歌の場合ほど端的に、純粋に、しかも効果的に、右の事情を我々に感ぜしめる例は、わが国の詩歌にあつては、他に類例がないといつてもよいやうに思はれる。短歌と並立して我国の最も普遍的な詩歌の伝統をなしてゐる俳諧に就て見ても、そこでは右の事情がやや趣を異にしてゐるのを、何人も容易に看取されることであらう。そこでは詩語の語意が、――それの明示性に依るよりもそれの暗示性に依るが故になほそれは詩的であるが――短歌に於てよりもずつと遥かに重要な機能を、負担を負はされてゐるのは、何人の眼にも明かな事実であらう。さうしてここで序でに、俳諧――俳句に於ては恋愛が恰好な主題とはなり得ない、考へ方によつてはいささか奇妙な消息を併せて考察してみるならば、先に私が、短歌がそれの詩形から主題として恋愛を取扱ふのに適してゐるといつた意味も、半ばは明らかになることだらう。短歌のあの五七、五七と繰りかへして最後に更に七とつけ加へた、短小ながら確乎として音楽的形式を踏んだ、嫋嫋とした詩語の纏繞性は、他の如何なる主題を撰んだ場合よりも、恋愛を歌ふに適当してゐるといつても、必ずしも牽強の言ではあるまい。これを事実に就て見ても、歴代歌集中の秀歌の数は、そのやうな統計を私は企てたことはないが、まづ第一にこの部門に集つてゐるに違ひない――。この問題に関聯しては、なほ多少述べたいこともあるが、ここではこれ位でやめておかう。
 さて次に万葉集の恋歌を二つ三つ挙げてみよう。巻一から、

紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
(天智天皇皇太子)
我が兄子は何所ゆくらむおきつものなばりの山…

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