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作品ID56804
著者坂口 安吾
文字遣い新字新仮名
底本 「風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇」 岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年11月14日
初出「東洋・文科 創刊号」花村奨、1932(昭和7)年6月1日
入力者Nana ohbe
校正者酒井裕二
公開 / 更新2016-05-10 / 2016-03-04
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 畏友辰夫は稀に見る秀才だったが、発狂してとある精神病院へ入院した。辰夫は周期的に発狂する遺伝があって、私が十六の年彼とはじめて知った頃も少し変な時期だった。これ迄は自宅で療養していたが、この時は父が死亡して落魄の折だから三等患者として入院し、更に又公費患者に移されていた。家族達は辰夫の生涯を檻の中に封じる所存か、全く見舞にも来なくなった。
 辰夫は檻の中で全快したが、公費患者の退院には保護者の保証が必要であるし、それに辰夫は三等患者時代の費用が百円程借りになっていたので、退院することが出来なかった。辰夫は狂人達と一緒に檻の中で封筒を貼っていたが、一日七銭の稼ぎになると言っていた。
 そういうわけで他に訪れる人がなかったので、辰夫は私一人を心待ちにして暮した。ところが私は性来最も頼りにならない男で、自分の親切さには凡そ自信を持たないから、人に信頼されたりすると重苦しくて迷惑するのであった。併し辰夫は毎日の面会が終る度に必ず目に泪を泛べて、「又明日もきっと来て呉れ給えね、君一人を待暮しているのだから」と言い乍ら痩せ衰えた指を顫わせ私の手首をきつく握るものだから、私も余儀なく毎日のように病院へ足を向けた。
 初めのうちは寧ろ病院へ行くのが珍らしくもあった。厳めしい石門を潜ってだらしなく迷い込む瞬間から、私も一人の白痴のようにドンヨリしてしまう精神状態が気に入ったり、それに私は、その頃辰夫のほかに全く友達を持たなかったので退屈を持余していたから。それに又全快し乍ら狂人で暮す此の秀才の物語るところが、その奇怪な心境を通して眺められた此の病院の様々な風変りな出来事や、それに対する鋭いそして奇妙な彼の観察や批評等、全てが興味深いもので、いわば私は全く打算的に、面白ずくで此の病院へ日参していた。
 ところが暫くするうちに、私達の間には話の種が尽きてしまった。私達は面会の時間中ボンヤリと屈託して、沈黙に悩むあまり、時々自分乍ら思いもよらない言葉を不意に喉の外へ逃がして気まずい目を伏せ合ってしまう。心に泛ぶこともないので、明日からは断々乎として訪問を止そうと、私は頻りに其の愉しさを思いはじめるのであった。すると鋭敏な辰夫は勝れた神経で忽ち私の胸中を推察し、別れ際には尚劇しく慟哭して、「迷惑だろうけれど明日も又、ね。君が来てくれないことになると僕は夕暮れを待つ力も失ってしまう……」そう言い乍ら思いがけない強い力で私の手首を握るので、その突瑳に私ははや明日の負担にフラフラし乍ら、長い廊下を消え去るように歩きはじめるのであった。すると看護人に伴なわれた辰夫は別な廊下へ――そこには鉄の扉が三ヶ所にも鎖されているが、まるで私をも幽閉する音のように鋭い金属の響を放ち、彼等の去り行く跫音と共に次々に開閉される憂鬱な響が地獄のような遠方から聞えてくる。矢張り明日も来なければならないと、悲痛な…

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