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文章の一形式
ぶんしょうのいちけいしき
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「堕落論・日本文化私観 他二十二篇」 岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年9月17日
初出「作品 第六巻第九号」1935(昭和10)年9月1日
入力者Nana ohbe
校正者酒井裕二
公開 / 更新2016-02-27 / 2015-12-24
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私は文章を書いていて、断定的な言い方をするのが甚だ気がかりの場合が多い。心理の説明なぞの場合が殊に然うで、断定的に言いきってしまうと、忽ち真実を掴み損ねたような疑いに落ちこんでしまう。そこで私は、彼はこう考えた、と書くかわりに、こう考えたようであった、とか、こう考えたらしいと言う風に書くのである。つまり読者と協力して、共々言外のところに新らたな意味を感じ当てたいという考えであるが、これは未熟を弥縫する卑怯な手段のようにも見えるが、私としては自分の文学に課せられた避くべからざる問題をそこに見出さずにいられない気持である。
 芥川龍之介の自殺の原因に十ほど心当りがあるという話を宇野浩二氏からおききしたことがあったが、当然ありそうなことで、また文学者のような複雑な精神生活を持たない人々でも、これ一つという剰余なしのハッキリした理由だけで自殺することの方が却って稀なことではないだろうか。
 自殺なぞという特異な場合を持ちだすまでもなく、日常我々が怒るとか喜ぶとか悲しむという平凡な場合に就て考えてみても、単に怒った、悲しんだ、喜んだ、と書いただけでは片付けきれない複雑な奥行きと広がりがあるようである。それにも拘らず多くの文学が極めて軽く単に、喜んだ、悲しんだ、叫んだ、と書いただけで済ましてきたのは、その複雑さに気付かなかったわけではなく、その複雑さは分っていても、それに一々拘泥わるほどの重大さを認めなかったからと見るのが至当であろう。実際のところ、特殊な場合を除いて、これらの一々に拘泥しては大文章が書けないに極っている。
 私は文章の「真実らしさ」ということに就て、内容の問題も無論あるが、形の上の真実らしさが確立すれば、むしろ内容はそれに応じて配分さるべきものであり、それに応じて組織さるべきものでもあり、こうして形式と結びついて配分されたところから、全然新らたな意味とか、いわば内容の真実らしさも生れてくるのではないかと考えている。如上の私の言う形式ということが、文章上の遊戯とは思えないのである。
 これを先ず小さなところから言えば、先程も述べたような、断定的な言い方が気になって仕方がないということであるが、これは必ずしも私の神経が断定を下すにも堪えがたいほど病的な衰弱をきたしているから、とばかりは言えないようである。
 意識内容の歪み、襞、からみ、そういうものは断定の数をどれほど重ねても言いきれないように思われる。又、私の目指す文学は、それを言いきることが直接の目的でもないのである。小説の部分部分の文章は、それ自らが停止点、飽和点であるべきでなく、接続点であり、常に止揚の一過程であり、小説の最後に至るまで燃焼をつづけていなければならないと思う。燃焼しうるものは寧ろ方便的なものであって、真に言いたいところのものは不燃性の「あるもの」である。斯様なものは我々の知能が意味…

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