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記憶ちがい
きおくちがい
作品ID56861
著者辰野 隆
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆 別巻44 記憶」 作品社
1994(平成6)年10月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2015-02-17 / 2015-01-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「久しぶりだな、全く。」
「久しぶりどころじゃないね、五十年ぶりだもの。」
 こう云って、声を揃えて笑ったのは、何れも老人で、二人とも今年は算え歳の六十三である。この“久しぶり”という間投詞のような挨拶は、今しがた、二人が会ってから、もう二、三度繰返されていた。午食には既に遅く、夕飯には未だ早い半端な時刻に、二老人は都心に近い賑やかな街の小料理屋で盃を重ねている。
「先刻、電車の中で、どうして俺だってことが判ったんだい? こっちはまるで気がつかなかったんだが、向い合って腰をかけているお爺さんから、いきなりYちゃんじゃないか? と言われた時に、初めて俺は五十年前の記憶が一時に甦って来たので、Nちゃんだったね、と言ったら、君が、やっぱりそうだったか、と言ったね。」
「俺は俺で、腰を下して向い合った時から、Yちゃんだな、とは思ったんだが、腮の左側に見覚えの黒子が無いので、或は間違いではないかとも考えたが、結局思い切って訊いてみたのだ。」
「黒子は顔を剃る時に邪魔になるので、もう疾うの昔、薬で焼いてしまったよ。ところで、Nちゃん、君と判ってから、直ぐに思い出したことがあるんだが。覚えていないかな。俺たちが高等二年の時だった。その頃、尋常二年か三年に、飯田の雪ちゃんという可愛いお嬢ちゃんがいたのを忘れたかい?」
「覚えているとも、雨の日のことだろう。あれは忘れられないよ。」
「そうか、そいつは驚いたね。」

 初夏の雨の日だった。休み時間に、運動場で遊べぬ少年少女たちは廊下を駆けまわったり、或はYやNのように、廊下の端に腰をかけて、両足をぶらんぶらんさせながら、灰色の空を物足らなそうに眺めたりしていた。Yがふと横を向くと、手を延ばせばとどく程の所に、色の白い円い顔の雪ちゃんが、片方の足を折って坐り、片方の足をぶらりと垂れて、これも余念なく、降る雨を眺めていた。
 その季節に足袋をはいているのは雪ちゃん以外にはなかったので、それがYにもNにも何となく異様に思われたのだった。Yにはその場の光景が五十年後の今でも、まざまざと浮んで来るのだが、それから先の記憶が少し覚つかない。次の瞬間には、Yは雪ちゃんを後から、しっかり抱えていた。Nは雪ちゃんの小さな白足袋を手に持っていた。足袋を無理に脱がされた雪ちゃんの左の足の小指が二股に岐れて、桃色の爪が二つ列んでいた。雪ちゃんはしくしく泣いていた。泣きやまなかった。目の前の水溜りの中には、雪ちゃんの草履の赤い鼻緒が濡れて、赤い色が水ににじんでいた。その時、見上げたNと見おろしたYの視線がはたと合った。当時十二歳の二人のいたずら小僧の顔には、驚愕とも当惑とも慙愧ともつかぬ異常な表情が現われていたに相違ない。そこで又記憶が中断されて、次の瞬間には、なお泣きやまぬ雪ちゃんが受持の女の先生に慰められながら去っていった後姿だけが、何時までも忘れ…

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