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二人のセルヴィヤ人
ふたりのセルヴィヤじん
作品ID56864
著者辰野 隆
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆 別巻31 留学」 作品社
1993(平成5)年9月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2015-02-25 / 2015-01-28
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 リヨンからパリに移ったのは冬の最中であった。停車場前から古い汚れたタクシーに乗って、オーステルリッツ橋を渡った時、遥の河下にノートル・ダムの黒い影が、どんより曇った朝の空に、寒そうに立っていたのが今も目に浮んで来る。向いの植物園の、葉の落ち尽した木立も、木立を囲む鉄柵も、固く黒く、とげとげしく見えた。青葉のパリしか知らなかった私には、此の蕭条たる眺めがひどく心細かった。今、あらゆる劇場で、モリエールの三百年祭を祝っている都とは思えなかった。
 セーヌ左岸のラテン区の一下宿に行李を卸して、夏以来会わなかったYの顔を見た時、私の発した第一の言葉は「パリの冬は陰気だなア」と云う歎声であった。学生街のみすぼらしい下宿の、部屋の中で、首に襟巻を巻いて、外套を着ているYの姿は、一層私の気をくさらした。粗末な机と椅子と寝心地の悪そうな寝台は寒い冬を更らに痛々しく思わせた。
「スチームは通らないのか。」
「通ってはいる。然し寒いんだ。何しろ安価いんだからね。来てから俺の部屋を眺めまわして喫驚するだろうとは思っていたが、やっぱり喫驚しているね。一寸いい気味だな。貴様の部屋は今、掃除をさせている。俺の部屋と似たものだから、掃除しても大して綺麗にもならないが、まあ我慢するさ。斯うした学生町の安下宿にくすぶらなくては本統のパリは解らない。上等なホテルに泊って、凱旋門を拝んで、淫売を買うなんざあお上りさんの定石だぜ。」
 斯う云って、Yは面白そうに笑った。私は到着早々一本参ったと思った。

 四五日たつと、Yの一言に依って大いに策励された私は、貧寒な下宿の生活にも直ぐ慣れて了った。部屋代が月百八十法。食料が二百五十法。その他洗濯代や下女の心づけを合せても、月五百法未満で済むような下宿は、学生町にもあまり多くはない。五百法は当時は八、九十円であった。部屋の暖まらないスチームや、固い寝台に不服を云えた義理でもなかった。食事の相当に旨い事、宿の主人夫婦の人柄な事、万事に気の置けない事が、寧ろめっけものだった。ひと月、ふた月と住み馴れるに従って、設備の不足などは全く忘れて、うす暗い室の窓から、灰色の冬の空を眺めても、もう滅相な心持にはならなくなった。それには、主人夫婦の好意も与って力があった。
 宿の主人は、一昔前までは、相当の事業家であった。欧州戦争の為に、出征、負傷、財産の減少、企業の中絶、凡ての計画が齟齬してからは、已むを得ず、学生町で、下宿業などを始めるようになったが彼は到底商売人ではなかった。それが却って吾々に非常に好い感情を抱かせた。殊に正直で、むかっ腹立ちの細君は、利害の打算などは忘れて、気に入らぬ客を、遠慮なく追い出す頼もしい癖があった。従って、商売はあまり儲かりそうにも見えなかった。
「一体、それで収支つぐなって行くのかなア。」日数が重なって、主人夫婦と心やすくなってから…

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