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まんじ
作品ID56873
著者谷崎 潤一郎
文字遣い新字新仮名
底本 「卍(まんじ)」 岩波文庫、岩波書店
1950(昭和25)年5月20日
初出「改造」改造社、1928(昭和3)年3月~1929(昭和4)年4月、6月~10月、12月~1930(昭和5)年1月、4月
入力者kompass
校正者酒井和郎
公開 / 更新2017-07-24 / 2017-07-17
長さの目安約 268 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

その一

 先生、わたし今日はすっかり聞いてもらうつもりで伺いましたのんですけど、折角お仕事中のとこかまいませんですやろか? それはそれは詳しいに申し上げますと実に長いのんで、ほんまにわたし、せめてもう少し自由に筆動きましたら、自分でこの事何から何まで書き留めて、小説のような風にまとめて、先生に見てもらおうか思たりしましたのんですが、……実はこないだ中ひょっと書き出して見ましたのんですが、何しろ事件があんまりこんがらがってて、どういう風に何処から筆着けてええやら、とてもわたしなんぞには見当つけしません。そんでやっぱり先生にでも聞いてもらうより仕様ない思いましてお邪魔に出ましたのんですけど、でも先生わたしのために大事な時間滅茶々々にしられておしまいになって、えらい御迷惑でございますやろなあ。ほんまに宜しございますか? わたし先生にはもう毎度々々おやさしいにしていただきますもんですから、つい御親切に甘える気イになって、御厄介にばっかりなりまして、どないに感謝してもしきれへんくらいや思てます。そいであのう、いつかも大へん御心配かけましたあの人のこと、あれからお話せんならんのんですが、あれはあの後に申し上げました通り、あないにいうて下さいましたのんで、自分でもしみじみ考えまして、あんなりぷっつり絶交してしまいました。その当座は未練とでもいいますのんか、何かにつけて思い出されますもんですから、家にいてましてもまるでヒステリーのようになってましたけど、そのうちにだんだんあの人がええことない男やったいうことはっきり分って来まして、……主人も私が前は始終そわそわして音楽会や何かいうては出歩いてばっかりいましたのんに、先生の御宅い寄せてもらうようになりましてから、すっかり様子変りまして、絵エ書いたり、ピアノの稽古したりして、一日家に落ち着いてますもんですから、「この頃はお前も女らしなったなあ」なんぞいいまして、蔭ながら先生の御好意よろこんでました。尤もわたし、あの人の事については何も主人にいいませなんだ。「夫に過去のあやまち隠しとくのんよろしゅうないから、――殊に肉体上の関係なかったのんなら告白しやすい訳やから、すべてを打ち明けておしまいなさい」と先生はいうて下さいましたけど、……けどどうも、……それはまあ、主人にしましてもあるいはうすうす気イついてたかも分れしませんのですが、私の口からは何やいいにくうもありましたし、この後間違いないように自分さい注意してたらええのや思いまして、何事も胸に収めてたのんです。ですから主人は私が先生からどんなお話伺うて来ましたやら、それは知りませんでしたけど、いろいろ為めになること教せてもろたに違いない思て、そういう心がけになったのんはええ傾向やいうてましてん。
 そんな訳で、そいから暫くは大人しいに家い引っ籠ってましたもんですから、この様子やっ…

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