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うつせみ
うつせみ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「にごりえ・たけくらべ」 新潮文庫、新潮社
1949(昭和24)年6月30日
初出「讀賣新聞」1895(明治28)年8月27日号~31日号
入力者岡村和彦
校正者青米
公開 / 更新2016-10-19 / 2016-09-09
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 家の間数は三畳敷の玄関までを入れて五間、手狭なれども北南吹とほしの風入りよく、庭は広々として植込の木立も茂ければ、夏の住居にうつてつけと見えて、場処も小石川の植物園にちかく物静なれば、少しの不便を疵にして他には申旨のなき貸家ありけり、門の柱に札をはりしより大凡三月ごしにも成けれど、いまだに住人のさだまらで、主なき門の柳のいと、空しくなびくも淋しかりき、家は何処までも奇麗にて見こみの好ければ、日のうちには二人三人の拝見をとて来るものも無きにはあらねど、敷金三月分、家賃は三十日限りの取たてにて七円五十銭といふに、それは下町の相場とて折かへして来るは無かりき、さるほどにこのほどの朝まだき四十に近かるべき年輩の男、紡績織の浴衣も少し色のさめたるを着て、至極そそくさと落つきの無きが差配のもとに来たりてこの家の見たしといふ、案内して其処此処と戸棚の数などを見せてあるくに、それ等のことは片耳にも入れで、唯四辺の静にさわやかなるを喜び、今日より直にお借り申まする、敷金は唯今置いて参りまして、引越しはこの夕暮、いかにも急速では御座りますが直様掃除にかかりたう御座りますとて、何の子細なく約束はととのひぬ、お職業はと問へば、いゑ別段これといふ物も御座りませぬとて至極曖昧の答へなり、御人数はと聞かれて、その何だか四五人の事も御座りますし、七八人にも成りますし、始終ごたごたして埒は御座りませぬといふ、妙な事のと思ひしが掃除のすみて日暮れがたに引移り来たりしは、相乗りの幌かけ車に姿をつつみて、開きたる門を真直に入りて玄関におろしければ、主は男とも女とも人には見えじと思ひしげなれど、乗りゐたるは三十ばかりの気の利きし女中風と、今一人は十八か、九には未だと思はるるやうの病美人、顔にも手足にも血の気といふもの少しもなく、透きとほるやうに蒼白きがいたましく見えて、折から世話やきに来てゐたりし、差配が心に、此人を先刻のそそくさ男が妻とも妹とも受とられぬと思ひぬ。
 荷物といふは大八に唯一くるま来たりしばかり、両隣にお定めの土産は配りけれども、家の内は引越らしき騒ぎもなく至極ひつそりとせし物なり。人数はかのそそくさにこの女中と、他には御飯たきらしき肥大女および、その夜に入りてより車を飛ばせて二人ほど来たりし人あり、一人は六十に近かるべき人品よき剃髪の老人、一人は妻なるべし対するほどの年輩にてこれは実法に小さき丸髷をぞ結ひける、病みたる人は来るよりやがて奥深に床を敷かせて、括り枕に頭を落つかせけるが、夜もすがら枕近くにありて悄然とせし老人二人の面やう、何処やら寝顔に似た処のあるやうなるは、この娘のもしも父母にては無きか、かのそそくさ男を始めとして女中ども一同旦那さま御新造様と言へば、応々と返事して、男の名をば太吉太吉と呼びて使ひぬ。
 あくる朝風すずしきほどに今一人車を乗りつけける人の有けり…

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