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覚海上人天狗になる事
かくかいしょうにんてんぐになること
作品ID56943
著者谷崎 潤一郎
文字遣い新字新仮名
底本 「聞書抄」 中公文庫、中央公論新社
1984(昭和59)年7月10日
初出「古東多万」1931(昭和6)年9月号
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2016-03-25 / 2016-01-01
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     ○

南勝房法語にいう、「南ガ云ハク十界ニ於テ執心ナキガ故ニ九界ノ間ニアソビアルクホドニ念々ノ改変ニ依テ依身ヲ受クル也、サヤウニナリヌレバ十界住不住自在也、………密号名字ヲ知レバ鬼畜修羅ノ棲メルモ密厳浄土也、フタリ枕ヲナラベテネタルニヒトリハ悪夢ヲ見独リハ善夢ヲ見ルガ如シ、………凡心ヲ転ズレバ業縛ノ依身即チ所依住ノ正報ノ淨土也、其ノ住処モ亦此クノ如シ、三僧祇ノ間ハ此ノ理ヲ知ランガタメニ修行シテ時節ヲ送ル也」と。此の南勝房という坊さんが覚海上人のことであって、順徳院の建保五年に高野山第三十七世執行検校法橋上人位に擢んでられたというから、ざっと今から七百年前、鎌倉時代の実朝の頃の人である。但馬の国朝来郡の生れで、始めは同国健屋の与光寺の学頭であったが、後に高野山へ登って学侶の華王院に住した。この与光寺という寺は現存していて、土地の人は今も上人の遺徳を慕っているという。華王院の方は今日では増福院と称し、前掲の南勝房法語、並びに覚海伝、上人自筆の消息文等を伝えている。一日私は此の寺を訪れ住職鷲峰師の好意に依って悉くそれらの古文書を筆録し得た。

     ○

紀伊続風土記所載高野山の天狗の項に「是は鬼魅の類にして魔族の異獣なり」とあるが、「然れども感業の軽重に随って自ら善悪の二種あり、よりて佛塔神壇を寄衛して修禅の客を冥護するあり、又一向邪慢[#挿絵]高にして悪逆に与し正路に趣ざるあり、当山に栖止するもの佛道を擁護し悪事を罰するの善天狗なり」ともあるから、魔界の種族ではあるが、必ずしも佛法の敵でないことが分る。兎に角「人体は吉シ雑類異形ハ悪シト偏執スルハ悟リ無キ故也、相続ノ依身ハイカナリトモ苦シカラズ、臨終ニ何ナル印ヲ結ブトモ思ハズ、思フヤウニ四威儀ニ住ス可シ、動作何レカ三昧ニ非ザラン、念念声声ハ悉地ノ観念真言也」と云うのが南勝房法語の建て前であって、上人が天狗になったことは、上人自身としてはその信念を実行に移した迄である。

     ○

増福院に蔵する所の上人の消息文は「蓮華谷御庵室」へ宛てたもので、鷲峰師の説明に依ると、此の宛て名の主は所謂「高野非事吏」の祖明遍上人(少納言入道信西末子)のことであるという。「近日十津川郷人来二当寺領大滝村一懸レ札申云当村并花園村等吉野領十津川之内也仍令レ懸二此[#挿絵]示之札一自今以後者可レ勤二十津川之公事一云々此条自由之次第不思議之事候」という書き出しで、全文を掲げるのは煩わしいから省略するが、要するに吉野僧の暴状を見て憤懣の思いを明遍上人に訴えたものである。覚海伝に拠れば此の事のあったのは建保六年正月より承久元年八月に至る間で、吉野の春賢僧正が郷民を引率して、高野山の所領に闖入し、花園の庄大滝の郷に吉野領と云う札を立て、「並於二御廟橋下一標二[#挿絵]芳野領一」とあるから、今の奥の院の大師霊廟の前にある無明の…

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