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朝香宮殿下に侍して南アルプスの旅
あさかのみやでんかにじしてみなみアルプスのたび
作品ID57025
著者木暮 理太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山の憶い出 下  」 平凡社ライブラリー、平凡社
1999(平成11)年7月15日
初出「中学生」1923(大正12)年8月
入力者栗原晶子
校正者雪森
公開 / 更新2015-12-10 / 2015-09-01
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

西山温泉

 寝覚の耳元へいきなりザアと大雨の降るような谷川の音が聞えた。目を開けると暁の色はまばらに繰り寄せた雨戸の間を洩れて、張り換えた障子に明るく映っている。宵の内に迷い込んだものと見えて、一疋の日蔭蝶が障子の桟に止まっているのが目に付く。何処からともなく淡い温泉の香が漂って来る。静に起き上って外面を眺めた。白い靄の罩めた湯川の谷を隔てて対岸の盛な青葉の茂みの中に、山百合の花が点々と白く浮き出している。時折谷の空で鳴く杜鵑の声が、水音にも紛れず耳に響く。
 顔洗いがてら下へ降りて湯に入った。湯は高い岩壁の下から湧き出して、一部は家の中に導かれ、一部は其儘岩の浴槽に湛えられている。湯滝なども作ってある。それに肩を打せながらジッと浸っていると、もう山へ入って大分経ったような気もする。けれども実は昨日朝香宮殿下のお伴をして鰍沢を出発し、南アルプスの登山口の一であるこの西山温泉へ着いた許りなのだ。環境の大なる変化が時のへだたりをも大きく見せるのである。殿下に随伴する一行は、お附武官の藤岡少佐、宮家附の浅野宮内省属、山田写真師、槇君及私の外に、軍用鳩調査委員の伊東中尉が八羽の鳩を携えて参加した。山梨県庁からは石塚都留中学校長、加島医師、丸山警部補、斎木巡査の四人がお伴し、それに『東京朝日』の特派員大東氏、同じく『報知』の森山氏を合せても、十二人に過ぎないのであるが、人夫は途中から帰らせる者を除いても、四十人近くを要するので、一行は総計五十人を超えていた。こんな大人数の登山隊が南アルプスに入り込んだのは、恐らく空前であったろうと思う。

 鰍沢では古那屋が御旅館であった。七月十九日の午後二時頃に殿下が御着きになると、お伴の人達は申す迄もないが、新聞社や通信社の特派員達も、この家を宿とする方が何かにつけて好都合なので、階下はどの室も忽ち満員の状況であった。夜になっても買物などに出歩く人の多いせいか、町の中は何となくざわめいていた。
 二十日は早朝から、殿下の御旅立を拝送しようとする町の人や近在の人達で、古那屋の前は賑っていた。殿下のお召料にと山梨県庁では、特に一頭の逞しい栗毛の駒を用意していたので、其の好意を無にし給わじとのお心遣から、草鞋をお穿きになったお足拵えにも拘らせられず、それに召されて、午前六時四十分に古那屋を御出発になった。
 天候が安定して、登山には誂向きの日和となったので、朝のうちから相当に暑い。畔沢を経て小室の妙法寺にお着きになったのは七時半頃であったろう。此寺は小身延といわれている程あって、立派なものだ。徳栄山と号し、山門に喝道峰と大書した額が掲げてある。かねて御休息所に充てられ、茶菓の用意がしてあった。それに寺からのお願い出もあったので、暫く御くつろぎの上記念の落葉松をお手植えになって、八時十五分に御出発になる。
 これから矢川の部落を過ぎ、出…

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