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演技の果て
えんぎのはて
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「愛のごとく」 講談社文芸文庫、講談社
1998(平成10)年5月10日
初出「文学界」1958(昭和33)年5月号
入力者kompass
校正者荒木恵一
公開 / 更新2018-02-20 / 2018-01-27
長さの目安約 69 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 日ざかりは光が眩しかったが、いつのまにかなまあたたかい初夏の宵にかわっていた。かすかな風も出てきて、街路を歩いて行き、見上げるとまだビルの上にうす青い晴れた空がのこっていた。
「すてきだったわ、今日は」私が足をとめると、つれの女は腕をときながらいった。
「とくに、君の食欲がすてきだった」
「あれは、ソースがよくできていたわね、仔牛のカツ」
 頬の肉の厚い女はのんびりいい、目を光らせて塗りなおしたばかりの唇で笑う。「それでね、それで私、おかわりをしたのよ」女の口調には東北ふうのアクセントがある。わざと上品ぶって標準語をしゃべろうとするので、語尾があがる。商売がら、私は訛りについてはうるさいのだ。だが、私はなにもいわなかった。もうその女はいらなかった。私は、彼女と二十時間ちかくいっしょにいたのだ。
 放送局のビルの前で私は女と別れた。背の高い女は石の舗道を五六歩そのままの方向に歩いて行き、くるりと廻れ右して私の前をそしらぬ顔で駅の方に引き返した。彼女は駅の向う側の喫茶店につとめている。淡い水いろのタイトの尻をふって、首をしゃんとあげて歩いて行く若い女には、ながい時間私とだけいた痕はどこにも見えなかった。私はひどく快い気分で昇降機の前に歩いた。
 女たちについては、私はちかごろはその皮膚のことしか考えない。皮膚をこえた部分、私に見えない部分について思いだすと、私はいつも途方にくれ、結局は立ち往生をとげてしまう。私は、ぷつんと糸を断つように別れたいがために、けんめいに女へのその戒律の実行を心がけていたのだ。
 七階の、廊下のつきあたりの本読み室は窓がなくて、そこには夜と昼の区別がない。黄いろい防音壁にかこまれた四角い部屋はボール箱の中のようで、壁にはめこまれた時計が午前か午後かわからない六時ちかくを指し、部屋はつけっぱなしの蛍光照明がまぶしかった。
 ドアをあけて、私は人びとが急に沈黙したことをかんじた。中央の細長い粗末な板のテーブルに肱をつくと、ちんばのその脚がかたかたと床に慄えた音をたてた。まだその音が消えなかった。ざわめきを中断した人びとを代表してのように、佐伯が一語一語はっきりと区切りながらいった。
「マリがね、マリが、今朝、中野の家で、睡眠薬を二箱飲んだそうです」
 それが私が真理子の自殺のしらせをきいた最初だった。俳優たちは異様に凝縮した静けさをまもりながら、思い思いに金属の椅子を壁ぎわにならべている。二三人がぼんやりと私をみつめていた。保井真理子は私の昔なじみだった。彼女は、その夜出演する予定の私の番組のタレントの一人だった。
「さっき、プロデューサーの佐藤さんに、マリの旦那さんから電話があったそうです。ぼくたちも、それではじめて知ったんです」
「死んだの?」と、私はいった。私は、ほとんど腰をぬかしていた。
「いいえ、まだ」老け役の女優がいい、あわて…

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