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頼杏坪先生
らいきょうへいせんせい
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「ふるさと文学館 第四〇巻 【広島】」 ぎょうせい
1994(平成6)年2月15日
初出「文芸春秋」1930(昭和5)年10月
入力者岡村和彦
校正者noriko saito
公開 / 更新2017-05-12 / 2017-03-11
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     *

 頼山陽の百年祭が明年に迫つたので、私の県ではその遺蹟顕彰会が組織され、全集の刊行、記念館の設立、旧居保存などそれぞれの準備が進められてゐる。さう云ふとき私は山陽先生を思ふと、妙にその家叔杏坪先生のことに心が惹かされてくる。杏坪先生は山陽終生の理解者であり、殊にその青年逆境の時代には最も温い庇護者であつた。
 一体に頼一家の学者詩人は、山陽の盛名によつて、より広く天下に知られてゐる。もとより杏坪先生の如きは、その学殖詩藻すでに当時定評のあつた人で、山陽をまつて初めて顕れたものではないが併しその性格なり閲歴なりから見ると、何れかと云へば杏坪先生は、華やかに世間の表面に立つべき人ではなかつた。先生が市井の出身で、芸藩の儒官、郡宰となり二百五十石の高禄を食むに至つたのは当時としては異常な出世であつたに違ひないが、これは曩に長兄春水が藩に召されたのが機縁となつて居る。従つて恰もその添役の如き観があり、その学名もまた兄春水の学名に蔽掩されてゐて、云はば蔭の人である。それに杏坪先生は殆どその後半生を学者としてよりも、北備辺陬の山地の郡宰として送つてゐる。その以前は江戸にも度々上り、中央の学者との交遊もあつたが、その後は直接には中央と没交渉になつてゐる。しかも宰邑は世間に没却された山地で、それも当時御納戸奉行上席を以て先生自ら進んでこの下級の吏務を引受けられたものといふ。済民の志の深いものありとは云へ、煩雑で見栄のせぬこの役目は、名利を度外した真摯な先生の如きでなくては、誰も好んで当るものがあるまい。謹直恪勤の資質のうちに、幾分の飄逸捕捉すべからざるものを蔵しながら、杏坪先生は、かうした広い世間からは注目されない地味な生涯を送られてゐる。だから山陽の盛名が頼一家を世間により広く紹介しなかつたならば、或は杏坪先生の名の如き、後世に於いては、唯特殊の人々と一地方の人とによつてしか、知られなかつたかも知れない。山陽の盛名とその不羈の生涯。謹直枯淡で縁の下の力持ちの如き一生を終つた杏坪先生。この相反した叔甥二人を対比して考へてみると、山陽の光彩ある生涯に対し、杏坪先生の粛然たる存在は、ある奥行を与へる一添景たるの感がする。

     *

 古来詩人学者にして実際の政務に当り、真に治績の挙つたものは、余り多くないやうである。しかし杏坪先生はその例外であつて、治績は頗る挙つてゐる。その宰邑は私の郷里奥備後の四郡(当時)であつて、約五万石の狭少な土地であるから、所謂大経綸などの施さるべき土地ではない。今私は先生の政治的気宇を云々しようとはせぬが、しかし先生の熾烈敦厚な済民の志と、その実際施政の才能とには服せざるを得ない。私の郷里では今なほ先生を、詩人学者としてよりも、寧ろ名郡宰として記憶し、尊敬してゐる。郡宰としての先生の治績には、父老会飲、賞罰の厳明の如き徳育風教…

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