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家庭小言
かていこごと
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「作家の自伝102 伊藤左千夫」 日本図書センター
2000(平成12)年11月25日
初出一「新佛教 第六卷第一號」新佛教徒同志會、1905(明治38)年1月1日<br>二「新佛教 第六卷第二號」新佛教徒同志會、1905(明治38)年2月1日<br>三「新佛教 第六卷第四號」新佛教徒同志會、1905(明治38)年4月1日
入力者高瀬竜一
校正者noriko saito
公開 / 更新2017-05-30 / 2017-03-11
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 近頃は、家庭問題と云うことが、至る所に盛んなようだ。どういう訳で、かく家庭問題が八釜敷なって来たのであろうか。其の原因に就いて考えて見たらば、又種々な理由があって、随分と面白くない原因などを発見するであろうと思われる。乍併、此の家庭問題を、色々と討究して、八釜しくいうて居る現象は、決して悪い事でない、寧ろ悦ぶべき状態に相違ないのであろう。只其の家庭問題を、彼是云うて居る夫子其の人の家庭が、果して能く整うて居るのであろうか、平生円満な家庭にある人などは、却って家庭問題の何物たるかをも知らぬと云うような事実がありはせまいか、是れは少しく考うべき事であると思う。予は現に、人の妻と姦通して、遂に其の妻を奪った人が、家庭の読物を、発刊しようかなどと云って居るのを、聞いたことがある。猶予自身の如きは、幸に家庭の不快など経験したことがないので、家庭の問題などは、主人の心持一つで、無造作に解決せらるるものと信じて居った。殊更に家庭の円満とか家庭の趣味とか、八釜しく云うことが、却っておかしく思われて居った。
 それは、今日世上に、家庭問題を論究しつつある人々の内にも、必しも不円満な家庭中の人許りは居るまい、人の模範となるべき家庭を保って居る人も、多いであろうけれども、実行の伴わない論者も、決して少くはあるまいと思う。円満な家庭中の人が、却って不円満な家庭の人から講釈いわるるような、奇態の事実がありはせまいか。云うまでもなく、家庭問題は、学術上の問題ではない事実の問題であるから、実験に基づかぬ話は、何程才学ある人の云うことでも、容易に価値を認めることの出来ないが普通である。世の学者教育家などの、無造作に家庭問題を云々するは、少しく片腹痛き感がある。世に家庭の事を云々する人には、如何なる程度の家庭を標準として説くのであろうか、予は常に疑うのである。家庭という問題に就いて、一つの標準を立て得るであろうか、其の標準が立たないとした時には、何を目安に家庭問題を説くか、頗る取り留めなき事と云わねばならぬ。元来、家庭と云うものは、其の人次第の家庭が成立つものであって、他から模型を示して、家庭というものは、是々にすべきものなどと、教え得べきものでないと思う。
 人々に依り、家々に依り、年齢に依り、階級に依り、土地により、悉く家庭の趣味は変って居る。今少しく精細に云って見るならば、役人の家庭、職人の家庭、芸人の家庭、学者の家庭、新聞記者、政治家、農家、商家、其の外に貧富の差がある、智識の差がある、夫婦諸稼の家庭もある、旦那様奥様の家庭もある、女の多い家、男の多い家、斯く数えて来たらば際限がない。一個人に就いても決して一定して居ない、妻のない時、妻のある時、親というものになっての家庭、子に妻なり婿なりの出来てからの家庭、此の如き調子に家庭の趣というものは、千差万別、少しも一定して居るもの…

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