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竹の里人〔三〕
たけのさとびと〔さん〕
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「長塚節全集 第五巻」 春陽堂書店
1978(昭和53)年11月30日
初出「馬醉木 第十號」1904(明治37)年4月5日
入力者岡村和彦
校正者高瀬竜一
公開 / 更新2016-09-27 / 2016-06-10
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

○一日を隔てた三十日に二回目の訪問をした。先生の姿勢はいつもの通りであつた。その時自分は國元から持つて行つた丹波栗の二升ばかりを出すと、それはどうして保存して置くのかといふやうな問があつた。砂と交へて土中に埋めて置くといふやうなことを話すと、ウムと聞き取れない程にいはれて暫くは默して居られた。自分は丹波栗を先生に進めたといふことで咏んだ二三首の歌を見せ先生は唯々じいつと見詰めて居られたが、その内の一つをこれ丈は別に惡いこともないが、あとのはもつと尻が締らなくてはいかないのですと言はれた。自分は嬉しいやうな恐ろしいやうな氣がして聽いて居つた。夫等の歌といふものは素より自分でも厭惡すべきものであつたのだから、先生に在つては必ず始末に困つた位には思つたのであつたらうが、別に小言もいはれなかつたのである。先生のは後になつても其通りで有つたが、自分等の作つたものを見て貰ふのに其作品が非常に拙劣で隨分叱責されるやうな場合でも、最初はこの時のやうに唯じつと見て居られてそれから極柔かに叱られるのであつた。比較的上作であつた時は直ちに面白いといふ一言で終るのである。拙劣な作であると、物を言はれる迄には必ず少なからず時間がたつやうに感ぜられた。軈て「大鷦鷯高津の宮は雨漏るを葺かせぬことを民は喜ぶ」の歌を例に出して、この結句が「民は」と曲折して居るから尻が据つて居るのである、三句までは極めて平凡に言つて有る。四の句に至つて一つの曲折を形作つて居るのを、更に結句にかういつて有るので十分に締りがついて居るのである。これが若し「喜びにけり」といふやうな句で結んであつたら到底物に成らないのである。「大汝少彦名の在しけむしづの岩屋は幾代經ぬらむ」の歌であつても、三の句までずうつと一直線に言ひ放つて四の句の「しづの岩屋は」の「は」で曲折を成して次に時間を含んだ句で結んであるから尻が非常によく調つて居るのである。こんなに長い時間を含んで居ながら卒讀した所では夫れが際立つて感じないのは、實に珍らしい歌といつてよいのである。この結句はまた「苔蒸しにけり」といつても落着くのである。夫れから又古今集かにあつた「白金の目拔の太刀をさげ佩きて奈良の都を練るは誰が子ぞ」などでもさうである。四の句までもずうつと言ひ下して置いて、結句で「練るは誰が子ぞ」の「練るは」と曲折を付けてあるから据はりがいゝのだ。實朝ので非常に好きな「八大龍王」の歌抔でもさうだが、三の句までは非常にまづいのである「時により過ぐれば民の」なんて實にまづい、殊に「時により」抔といふ句は酷いのであるが、その替り唯でさへ振つて居る「八大龍王雨止め給へ」といふ句がついて居るのだから一層振つて見えるのである。この三の句までの平凡な處が非常に好きなんだ。初は成丈輕くするのだ。さうすれば尻が据はるが、初めに強く言ひ切つて仕舞ふと尻がどうしてもふら/\し…

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