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樅ノ木は残った
もみノきはのこった
作品ID57786
副題04 第四部
04 だいよんぶ
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十巻 樅ノ木は残った(下)」 新潮社
1982(昭和57)年12月25日
初出冒頭のほぼ三章「日本経済新聞」1956(昭和31)年3月10日~9月30日<br>上記以外「樅の木は残った 下巻」講談社1958(昭和33)年9月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者富田晶子
公開 / 更新2018-04-20 / 2018-09-21
長さの目安約 295 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

意地の座

 甲斐が「席次争い」の騒ぎを知ったのは、矢崎舎人の裁きがあって、十日ほど経ったのちのことであった。
 それまでにも、甲斐には辛いことが続いていた。おと年(寛文五年)の夏、塩沢丹三郎が毒死し、去年の正月には茂庭周防に死なれた。周防が寝ついていた百余日、病床をみまったのは、僅かに三度だった。それも二度は他のみまい客といっしょで、まったく形式的な挨拶しかしなかった。ただいちど、独りでみまったときも、ほんの四半刻あまりしかいなかったし、そのときでさえも、深入りをした話しは、二人ともしなかった。
 ――話すことはないな。
 ――そう、話すことはない。
 二人はお互いの眼でそう頷きあった。たしかに、口で話しあうことはもうなかった。周防の顔には、あとの事は甲斐が引受けてくれる、という安心の色があり、甲斐は大丈夫やってくれる、という信頼感があらわれていた。それを証明するように、周防はひと言だけ、先へいって済まない、という意味のことを、微笑しながら云った。
 ――なに、すぐ追いつくさ。
 と甲斐は答えた。
 ――もうみまいに来るには及ばないぞ。
 ――そのつもりだ。
 ――これが別れだな。
 ――これが別れだ。
 ――笑うかもしれないが。
 と周防が云った。
 ――おれがいまいちばん心配しているのは、うまく死ねればいいが、ということだ。
 ――自然のままがいい。
 と甲斐が云った。
 ――うまく死のうとまずく死のうと、死ぬことに変りはないのさ。
 周防は微笑し、じっと甲斐の眼をみつめながら、頷いた。
 ――ではこれで。
 ――では、……
 それが、二人の会った、最後になった。
 周防の死んだのは、正月十一日の朝で、前夜半から二度茂庭の家従から甲斐のもとへ、「危篤」の知らせがあり、甲斐は堀内惣左衛門を代理にやった。惣左衛門は夜明けまで、茂庭家に詰めていたが、臨終が近いといって、七時ころ、甲斐を迎えに来た。
 ひと眼だけ、顔を見たい、と仰しゃっています。
 どうかすぐいってあげるように、と惣左衛門が云った。甲斐は、いや、と首を振った。周防がそんなことを云う筈はない、別れはもう済んでいる。もしそんなことを云ったとすれば、病毒に頭をおかされたためで、周防の本心ではなくうわ言にすぎない、と甲斐は云った。
 ――それではあまりです。
 と惣左衛門は堪りかねたように、膝を進めて云った。
 ――事情はよく承知しているが、それではあまりひどい。
 惣左衛門は珍らしく、強い調子で甲斐を説いた。重縁の親族というだけではない、亡き佐月さまから、周防さまへと、誰よりも親しく、心の底から信じあって来られた。ほかのことではなく、その唯一の友である周防さまが、いま死のうとしているのである。一ノ関の疑惑を避けるためなら、言葉を交わさなくともよい、この世のなごりにただひと眼、互いに顔を見るくらいのこ…

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