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樅ノ木は残った
もみノきはのこった
作品ID57787
副題03 第三部
03 だいさんぶ
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十巻 樅ノ木は残った(下)」 新潮社
1982(昭和57)年12月25日
初出「日本経済新聞」1956(昭和31)年3月10日~9月30日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者富田晶子
公開 / 更新2018-04-16 / 2018-09-21
長さの目安約 341 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

川の音

 七月中旬の午後、――ひどく暑い日で、風もなく、白く乾いた奥州街道を、西にかたむいた陽が、じりじりと照らしていた。
「そうだ、あいつだ」と伊東七十郎は歩きながらつぶやいた、「どこかで見た顔だと思ったが、たしかに彼に相違ない」
 七十郎は、片方の手で額をぬぐった。手の甲に、べっとりと汗が付き、髪の生え際には、汗が乾いて塩になっていた。着ている生麻の帷子も、袴も、汚れてほこりまみれで、萱笠をあみだにかぶり、彼は刀を肩にかついでいた。刀には旅嚢がひっ掛けてあり、その旅嚢が背中へ触らないように、かついでいる刀をあんばいしながら、歩いていた。
 そこは陸前のくに柴田郡の、岩入というところで、左に白石川の流れが見え、その流れはいま、街道とはなれつつあるが、広い河原をわたって、川の瀬音はまだはっきり聞えて来た。馬を曳いた農夫がゆきちがい、三頭の黒い牛を追って来た牛方とゆきちがった。三頭ともみごとな黒牛で、埃をあびているのに、その毛はびろうどのように艶つやと光り、そしてどの牛もずっしりと重おもしく、王者のように重おもしく、ゆっくりと歩き、通りすぎるときに、その一頭は、小さな眼で、七十郎を見た。
 七十郎は立ちどまって、ほれぼれと牛を見おくった。みごとだな、と彼は思った。みごとに堂々としている、あれは飼われるべき動物ではない。あのくらいの牛になると、人間が飼うのは不自然だ、と思った。
 牛はゆっくりと遠のいてゆき、その向うから、二人の供をつれた、旅装の侍が、こちらへ近づいて来た。
 七十郎は松並木の影にはいり、そこにあった石に腰をかけた。旅嚢を脇におろし、刀を両足の間に置き、萱笠をもっとあみだにして、額の汗を手でぬぐい、衿をくつろげた。――侍は近づいて来て、そこに七十郎のいるのを認めると、笠で顔を隠すようにしながら、前を通りぬけようとした。
「やあ、しばらくだな」七十郎は無遠慮に呼びかけた、「しばらくだな、渡辺七兵衛、休んでゆかないか」
 侍は立ちどまってこっちを見た。それは渡辺七兵衛であった。彼は七十郎と同年配だが、四つ五つも年長にみえる。供の一人は万右衛門といって、これも七十郎には見覚えがあった。
「失礼だが、先をいそぐので」と七兵衛が云った。
「いそぐんならいっしょにゆこう」と七十郎はすぐに立ちあがり、ふたたび旅嚢を刀にひっかけて、肩にかついだ。
 万右衛門がむっとした顔で七十郎をにらんだ。渡辺七兵衛は歩きだし、七十郎は彼と並んで歩きだした。刀にひっかけてある旅嚢が、七十郎の背中で揺れ、七兵衛の供の万右衛門が、うしろから眉をしかめながら、それをにらんでいた。
「どうせ船迫で泊るんだろう」と七十郎が云った、「宿は柏屋か伊十か」
「船迫で泊るとはきめていない」
「それなら泊ることにきめるさ、柏屋ではうまい酒を出す、おれが案内するよ」
「失礼だが」と七兵衛が七十郎を…

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