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長崎留学
ながさきりゅうがく
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎集 第二巻」 岩波書店
2000(平成12)年11月6日
初出「文藝春秋 第十六巻第一号」1938(昭和13)年1月1日
入力者kompass
校正者岡村和彦
公開 / 更新2017-07-04 / 2017-06-25
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 維新の先覚者たちが、蘭学の勉強のために長崎へ行ったことは今更とり立てていい出すまでもないことであろう。しかしこの長崎留学の問題はよく考えて見ると、なかなか意味の深い示唆を与えてくれる問題であるように私には思われる。
 一般にあの先覚者たちは、蘭学を学び西欧諸国の新知識を吸収して、維新の大業のある意味での基礎を作ったと考えられているようである。しかしわずかばかりの単語を通辞から教わったり、大変な苦労をして辞書のひき写しをしたりして得た外国語の知識そのものは大したものではなかったのであろうという気がする。例えば今の中学卒業程度の英語の知識と同じ程度の蘭語の知識でも、あのような状況の下では習得することはむつかしかっただろうと思われるのである。
 ところで現今の中学卒業生の語学の力では、実際に外国の文化の吸収に役立つかというに、それは勿論全く「役に立たない」というのが一般の意見である。それで中等学校の外国語を全廃してしまえというような議論が出ている位である。しかしこの「役に立たない」というのは実は問題である。外国語の知識というものが全く単なる道具に過ぎないものならば、そのような意見が成り立つかも知れない。しかし、維新の先覚者たちの蘭語が役に立っている所をみると、中等学校の英語も役に立っているのであろう。それは西洋の意識を覗かせてくれるという一番大切な点において役に立っているのであると自分には思われる。
 落語に大きい茄子の話がある。「家位の大きさか」というと「いやいや」と答える。「それでは山位か」ときくと「どうして、どうして」という。よろしく問答があって「それでは一体どれ位の大きさなのか」という段になって「まるで闇夜にへたをつけたようだ」という話があるが、この笑いは私には日本の意識から生れたものと思われるのである。
 ところでこの話とピクイック先生が、ある晴れた秋の朝、二階の窓から前の露路を眺めてはたと小膝を打つ場面とをくらべて見る。「なるほど、哲学はこの露路のようなものだ」と、先生は大真面目に感心するのである。「そうだ、奥行は長いが、なるほど幅は狭い。本当の人生の勉強には旅に出なければならない」と大決心をして旅行に出る。それを発端として展開されるあのディッケンスのユーモアは完全な英語の意識の一つの現われであろう。
 この英語の意識はディッケンスを読むに足るだけの語学の知識はなくとも、現代の吾々には十分に感得出来るのである。それは吾々の父や祖父の時代において、既に西洋の意識を十分にとり入れているからである。冬彦先生が初めて英語を学ばれた時には、「猿は二本の手を持つ」という文句が非常に不思議に感ぜられたそうである。吾々の民族は、この一世紀の間に、このような外国語の簡単な一句々々を通して西洋の意識をとり入れてきたのである。そしてもう現代の教育を受けた人々には、落語の大…

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