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民族的記憶の名残
みんぞくてききおくのなごり
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎集 第二巻」 岩波書店
2000(平成12)年11月6日
初出「文藝春秋 第十七巻第十九号」1939(昭和14)年10月1日
入力者kompass
校正者岡村和彦
公開 / 更新2017-10-25 / 2017-09-24
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 もう四年前のことになるが、考えて見れば、寺田先生の亡くなられた年の夏のことである。
 先生の最後の随筆集『蛍光板』を貰って、ひとわたりずっと読んで行ったところが、「冬夜の田園詩」という短い文章のところで、私は妙に底知れぬしみじみとした感じにうたれたことがあった。
 それは三頁にも足らぬ短いものではあったが、その中に先生の幼かった頃の土佐の民族詩的情景が、いかにもありありと描き出されていた。
 冬の夜長に孫たちの集っている灯下で夜なべ仕事をしながら、山中の狸どもの舞踏会の話をする老婆の姿や、夕闇迫る田圃道で子供たちが原始民謡風な歌を唄いながら、その唄におびえて一せいに駆け出すという話など、とりとめもないような事柄の叙述の中に、美しくもまた物怖しい童話詩的な雰囲気がよく語られていた。
 そして先生は、その幼い頃に郷里の「田園の闇に漲って」いたところの「滑稽なようで物凄いような、何とも形容の出来ない夢幻的な気持」を、民族的記憶とでもいうようなものではなかろうかといっておられた。
 こういうものを読んで、その感情がひたひたと身に迫って感ぜられたのも、私どものように、田舎に育ったものの特権であろう。
 私どもの育った北陸の片田舎には、ついこの二十年くらい前でも、こういう民族的記憶による特殊の情緒が、人々の日常の生活の中に深く浸み込んで残っていた。
 そこには、現在の自分らの物の考え方のような思考の形式は、まだはいってきていなかったような気がする。あるいはもっと極端にいえば、喜怒哀楽の情までも現代の若い都人士の喜怒哀楽とは異っていたといえるかもしれない。
 文藻豊かな私の友人の一人が、いつか西洋のスポーツと日本の競技との底に流れる感情を比較して、その間に根本的なちがいがあるという面白い意見をきかせてくれたことがある。
 西洋のスポーツに伴う声は、たとえばオリンピックの放送で聞いた歓声のように、胸一杯に吸った空気が期を得て爆発する声である。こういう声は日本古来の競技にはない。日本の競技に伴う声の代表的なものは、剣道の気合のように、腹の底から絞り出す裂帛の声であるという話なのである。
 その話をよく味わってみると、なるほど日本の競技には、剣道の掛け声のような極端な場合でなくとも、いずれの場合にも必ずどこかにこの裂帛の調べがあるような気がする。
 そういえば、私たちの子供の頃の北陸の農村の生活を思って見ると、そこには、現在吾々が知っているような歓声が聞かれる機会はなかったようである。一番それに近いものを拾い出してみるとすれば、花相撲で村一番の名力士が、堂々と相手を押し切った場面などを想像してみることが出来よう。しかしその時に揚がる声にも、何処かに勝鬨めいたものが雑っていて、今日吾々が、テニスコートの側できく、あの輪廓の円いそして大きいながらに軽いところの現代の声ではなかった…

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