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春深く
はるふかく
作品ID58007
著者久保田 万太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「日本近代随筆選 1出会いの時〔全3冊〕」 岩波文庫、岩波書店
2016(平成28)年4月15日
初出「都新聞」1924(大正13)年5月2、3、6、7日
入力者法川利夫
校正者岡村和彦
公開 / 更新2017-05-06 / 2017-03-11
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 嘗て磯部というところへ行ったことがある。――上州のあの温泉の……
 二十九の春とおぼえている。――駒形にまだいた時分だ。
 みっともないから事の次第はいわない、とにかく、その時分、いまにして思えば空な話。――らちくちもない夢のような話をたよりに、わたしは、白痴みれんな毎日を送っていた。――寂しく、味気なく。――何をする張合もなく陰気そのもののような毎日を送っていた。
 その間で、ふっと、東京にいるのがいやになった。――どこかへ行くことだ。――平生どこへも出たことのない奴がわけもなくそう思った。
 で、直ぐ、そのつもりにした。外へ出たついでに旅行案内を買って来た。
 磯部を選んだのは、島崎(藤村)先生のたしか「芽生」のなかにそこのことが出て来るのと岡本(綺堂)さんが、その少しまえ、そこへ暫く行っていられたというのを聞いたのと、そうした二つの理由からだった。――島崎先生と岡本さんの好みに合うところならどう間違っても大丈夫だ。――一人でそうきめたうらには、安中だの松井田だの、円朝の『榛名の梅が香』に出て来るそのあたりの、寂しい火の消えたような光景の自らわたしにさしぐまれるもののあったことは勿論だ……
 汽車の中でよむ二、三冊の本と、原稿用紙と、万年筆と、外に一つ二つの手廻りのものと、荷物といってはそれだけだった。籠一つでことは足りた。――それを下げて四月の末の曇った午後、わたしはぼんやり一人で上野を立った。高崎で乗りかえて、五時ごろ、磯部へ着いた。
 そこで下りたのはわたしだけだった。――切符をわたして思った以上に小さい、人けのないガランとした停車場の構内を出ると、繁り切った桜の嫩葉の、雨を含んだ陰鬱な匂がしずかにわたしに迫った。――あたりはもう灯火のほしいほどに暮れかけていた。
「鳳来館まで。」
 二、三人、わたしをみてそばへ寄って来た車夫の一人にわたしはいった。
 鳳来館がどういううちだかということをわたしは全く知らなかった。――ただ、磯部で、最も古く最も大きい宿屋だということを汽車の中で聞いただけだった。――それも直接に聞いたのではなく、大宮から乗って来た二人づれの老人の、そのあたりのことを互にいろいろ話合うのを、ゆくりなく、側で、聞いただけだった。
 だから、みるまで、蓬莱館と書くのだとばかりわたしは思っていた。――鳳来館だとは夢さら思わなかった。
 俥は、両側に、不揃いな家の退屈にならんだ石坂みちをぐつぐつ下りて行った。みちに沿って水のながれているさまが、そう思ってみれば、古い温泉の町らしい感じをどこかにみせていた。――が、そこには、残る花の風情もなく、十分ほどで、わたしは、三階建の大きな、纏まりのない、いかにも宿屋宿屋したつくりの汚れ腐った玄関のまえに下された。
「こんなうちか?」
 すぐ、そのとき、わたしはそう思った。――酷くあての外れたのを感じた…

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