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洪川禅師のことども
こうせんぜんじのことども
作品ID58057
著者鈴木 大拙
文字遣い新字新仮名
底本 「禅堂生活」 岩波文庫、岩波書店
2016(平成28)年5月17日
初出「大乗禅 第二十一巻七号」1944(昭和19)年7月1日
入力者酒井和郎
校正者岡村和彦
公開 / 更新2017-11-11 / 2017-10-30
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 近頃洪川老師のことを調べて居ると、色々有り難きことに逢著する。自分も今老師の亡くなられた年に殆んど近づいて居るが、自ら省みて足りないことのみ多きを愧ずる次第である。修養は一生を通じての事業でなくてはならぬ。「これでよい」などと、どこかで一休みすると、そこから破綻の機会が生れる。家康の云ったように、人生は車を推して長い坂を上るようなものだ、一寸でも緩みが出ると、後退する外ない。人生は進むか退くかどちらかである。じっと一処に止まって居ることはない。実にその通りである。乾の徳と云うこともあるが、天地自身が一刻も休むことなしに動いて居る。動かなくなるのは死んだときである。人間も亦かくの如しで、不断の努力が生命そのものなのである。これがなければ生きながら死んで居るわけである。
 洪川老師を知らぬ人も沢山居ることと思うので、一寸お話しする。師は鎌倉円覚寺の和尚さんであって、明治二十五年一月に遷化せられた。年七十七。遷化の日、自分は偶然三応寮に居合わせたので、殆んど半世紀を経た今日も尚その時の記憶の新たなるを覚ゆるものがある。老師の円覚寺へ来られたのは、明治八年であった。その前は周防の国、岩国の永興寺に住せられた、時に年四十三。『禅海一瀾』はその頃書かれたのである。
 老師は元来が儒者であった。妻もあったのであるが、二十五歳の時出家せられた。修行中は並々ならぬ苦酸を重ねられたが、凡そ十年にして臨済の宗義をその底に徹して参詳し尽くす。老師と時代を同じうする宗匠に、相国寺の独園、天龍寺の滴水、東福寺の敬冲、妙心寺の越渓等があった。洪川老師の遺稿を読んで見て居ると、その時代と今日と相隔ること半世紀以上であるが、禅界におけるその間の変遷は、各部面において、如何にも著しきものがある。
 老師は儒家の出身で、特に壮年の頃出家せられたのであるから、学問に対しての志向は、自ら他の禅者と異なるものがある。それから明治の初年は、政治・道徳・宗教、その外の思想文化の方面で、尋常ならざる衝動を受けた時代なので、将に老境に入らんとせられつつあった老師などにとっては、その変化に順応するの如何に困難なりしかを想像するに余りあるものがあった。併し老師は断えず所謂る新知識を吸収するに努められた。基督教徒に対する反撃なども、今から見れば、見当違いの面もあるが、その頃はどこでも、それ以上には出られなかったのである。老師はまた進化論などにも興味をもたれた。兎に角、新進の知識に触れようとせられたことは、注意すべきであろう。年は老いても精神の老いざることを示すものがあって嬉しい。
『宝鑑録』を読むと末後に左の記事がある。

師(愚堂)齢八旬余、一日〔豊〕玉に語りて曰く、老僧往年、本山に住するの日、単伝和尚、時に九十余齢なり、余の上堂の語を見て、歎美して曰わく、公猶未だ老いたりとせず、意を刻せば則ち成らざるなけん。…

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