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僧堂教育論
そうどうきょういくろん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「禅堂生活」 岩波文庫、岩波書店
2016(平成28)年5月17日
初出「中外日報」1922(大正11)年8月17-20日、22・23日
入力者酒井和郎
校正者岡村和彦
公開 / 更新2017-07-12 / 2017-07-17
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 昔は方外の友などといえば、面白い聯想もあったものである。勿論近代といえども、僧侶殊に禅僧については、尚従来の伝説やら歴史やら挿話などが、くっついているので、わしらも審美的に方外の友に対して一種の興味を有っていることは事実である。併しこんな趣味がいつまでも続いて行くのがよくないのかも知れぬ、所謂る中古的骨董的趣味とでもいうべきもので、進化の歴史からは、こんな低徊主義は自ら亡びて行くのが本当かも知れぬ。今日の多くの禅僧達には

楊岐乍住屋壁疎  楊岐乍めて住するや屋壁疎らにして
満床皆布雪真珠  満床皆な布く雪の真珠
縮却項暗嗟吁   項を縮却め 暗かに嗟吁し
翻憶古人樹下居  翻って憶う古人の樹下に居せしを
(『楊岐法会語録』)

などと貧乏に安んずる清僧も余りないようであり、又

摧残枯木倚寒林  摧残せる枯木寒林に倚り
幾度逢春不変心  幾度か春に逢うも心を変えず
樵客遇之猶不顧  樵客之に遇うも猶お顧ず
郢人那得苦追尋  郢人那ぞ苦に追尋するを得ん
(『景徳伝燈録』巻七大梅法常章)

というような風流気のある仙僧も見受けぬようである。これに反して日曜学校をたてたり、病院をこしらえたり、孤児院の世話をしたり、小学校や中学校を経営するものは、そこここに見当らぬこともない、これが禅僧の時勢に適しいやり方なのであろうか。女房もあり子供もあり、葷酒はいうに及ばず肉食も勝手にやるようになった今日では、禅僧について居た古来の聯想や歴史を全く棄てて、当世風になるのが、所謂る和光同塵の精神かも知れぬ。併しわしらは今日までも尚禅僧の君等を方外の友人として見たいのである。
 中学時代から世話してやった大学の学生がこの頃遊びに来ると、曰く、もう三十以上の人間は今時駄目である、古い頭では何にもならぬと。わしらは三十どころでないのであるから、頭も最も古い方々に属する。そのせいか知らぬが、禅僧などに対する趣味は尤も古臭い。殊に工業主義、器械主義、商売主義のみ横行する今日のような世界に、昔気質の禅僧が一人や二人、出来るなら、日本全国に百人ばかり居てくれたらと思うこと屡[#挿絵]である。貧乏寺でも何でも構わぬが、孤貧を守りて金力に屈せぬ坊さんがいると如何にも愉快に感ずる。大臣だとか華族だとかいえば、慇懃を尽くすというような阿附主義でない坊さんがいると如何にも溜飲が下がる。枯淡な生活に安んじて、如何にも古禅僧を憶うというような坊さんに出遇うと、何か知らず有りがたくなる。如何にも消極的ではあろうが、そこに不思議に人を引きつける力がある。自分が権力を憚かり、金力を恐れねばならぬ境遇にいるからの事でもあろう、君等の禅僧の地位が羨ましい。この期待を裏切る坊さんがいると、それだけ癪にさわるわけであるが、それは余り多くを坊さんに望むからのことであろう。それはとに角として、世間には自分たちのような理想…

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