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鹿山庵居
ろくさんあんきょ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「禅堂生活」 岩波文庫、岩波書店
2016(平成28)年5月17日
初出「禅道 第六五号」1915(大正4)年12月5日
入力者酒井和郎
校正者岡村和彦
公開 / 更新2017-10-18 / 2017-09-24
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 人の心と云うものは本来縛らねばならぬように出来ておるのかどうかは知らぬけれども、吾等は何かかんか云うてこの心を繋ぎ、この身を苦しめておる。何もない処にぽかんとしておることが出来ぬ。もしそんなことでも有ると、自分で屹度何か手頃の束縛を造り出す。蜘蛛が巣を作り、蚕が繭を作ると全く一般である。何かと云うと、平等であるとか、一視同仁であるとか云う人間が、社会なるものを造ると、此処に貴族と云うもの、平民と云うものをおき、その貴族の中にも公侯伯子男と順序を並べ、また一般の市民や役人の中にも位階を設け、正一位であるとか、従八位であるとかやり出す。こんなものが出来ると、男爵になっておるより伯爵にでもなって見たくなり、正六位と云うよりも従二位として欲しかったりする。それだけならそれで悪くもあるまいが、この階級が人格の上下を批判するもののように思われて来る。正一位の人が正八位の人より、その人格において、特に秀でたものと想像せらるる。また公爵の人が男爵の人よりも何だか別格の人間で毫光でも射すかと怪しまるる。ここに到るとその弊害に堪えられぬと云うてよい。まだある、人爵を離れ、位階を超えておると思わるる僧侶でさえ、正三位とか侯爵とか云うものが欲しくなって、人天の大導師もとんでもない狂言を演ずることになる。馬鹿さ加減もまずこの辺にして止めて欲しいものである。
 話が大変大きくなって来たようであるが、始めに束縛云云と云い出した動機は、わしらのような境遇にはいると休日なるものが頻りに恋しくなるものであると云うことを云いたかったのである。下らぬことである。日日是れ好日であるからには、勤めの日も休みの日も結構であるべき筈だ。ところが、人間と云う馬鹿もの、中々そうは行かぬ。来年の暦が出来て来ると、直ちに日曜と祭日と重なるか重ならぬかと調べ始める。新聞などはこれを心得ておるから、まっ先に報道する。わかった顔した読者は「何だ、早く気をまわしたものだ」と云いつつ、自分も熱心にその報道を研究し始める。先生は生徒に向って、「そんなに休みばかり勘定せずに勉強しなければならぬ」と云うては見るが、自分もその休みは大に歓迎するのである。わしもその一人であることを白状する。
 御大典の有難さは、一週間の休みと云う形式で現われて来た。御盛儀を拝観するだけの資格もない凡夫は、田舎に退いて読書か坐禅か綴文か位をやる外、何等の技倆もない。それでこの一週間は何時もの庵へ引き込んだ。何時か秋の頃、三、四日ばかりゆっくりと山居をして見たいと云うのが、帰国以来の希望であった。予は性来山が好きである、そうして山の最も好いのは秋であるから、今度の休みは誠に優渥なる天恩と感謝してよい。この一篇の目的はかくの如くにして得た山居の消息を伝えんとするに在る。
 この山居と云うは予が二十年前によく来て坐禅をやった処で、中々想い出が多い。その頃…

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