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初旅の残像
はつたびのざんぞう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「ふるさと文学館 第四四巻 【愛媛】」 ぎょうせい
1993(平成5)年10月15日
初出「中外商業新報」1937(昭和12)年1月8日〜10日
入力者Juki
校正者日野ととり
公開 / 更新2017-01-01 / 2017-01-01
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ここに初旅といふのは新春の旅といふ意味ではなく、生れて初めての旅といふことであり、それを更に説明すれば、生れて初めて宿屋に泊つた経験といふことである。この間寺田さんの「初旅」といふ文章を読んで居たら、ふと私自身の初旅を想ひ出し、それを書いて見る気になつたのである。
 私の初旅は中学一年の頃だから、私の十四の夏のことであつた。明治二十九年、ちやうど日清戦争の翌年であつた。旅行の目的は四国第一の高山石鎚山に登ることであつた。私の少年の頃「お山行(やまゆき)」といへば石鎚登山の連中を指した。夏になると家に居る子供を妙にそそのかす法螺貝の音が時々響いて来る。「そらお山行ぢや」と私達は街頭に出て行つて、その「お山行」から石楠花の枝をもらふのがおきまりであつた。「お山行」の連中は皆白装束、白の脚絆、白の手甲をして居り、先達に率ゐられた村々の団体だつたらしい。石楠花の枝をもらはなかつた記憶がないから、いつも帰りの連中であつたのか、往きの連中はどうしたのか、そこはよく分らない。どこの霊山にもあるやうに、精進のわるい者、偽を言ふ者は天狗に投げ飛ばされるといふやうな話は、子供の時からよく聞かされて居た。
 松山市を囲む小さな道後平野を限つて、北には高縄山があり、南と東とに亙つて障子山、三坂峠、北ヶ森、遅越峠、石墨山などの連峯が屏風のやうにそそり立つてゐる形は、少年の眼には高山らしい威力を以て迫つた。その東の方の隅に凹字形をした石鎚山が奥深く控へて、その時々の気象によつて或は黒く、或はほのかに、或は紫に、或は真白にこちらをのぞいてゐる姿は、「お山行」と共に長い親しみ深い威容であつた。
 私達をお山へ連れて行つてくれたのは、今正金銀行に居る岸の駿さんのおとうさんで、我々が岸のおいさん(おぢさん)と称して居た人であり、親族ではなかつたが親族同様に親しくして居た家であつた。岸のおばさんは正岡子規の母堂の妹で、駿さんは子規の従弟である。このおいさんは県庁の役人を止めてから、地方銀行の監査役の外に何をして居たのか知らぬが、私達の身の鍛錬の為によく私達を海や山へ連れて行つてくれた。「数理」を基礎にした実学をやらねば駄目といふのが、このおいさんの主張であり、兎に角一種の風格ある人物であつた。心配性の父が山行を許してくれたのも、このおいさんの統率だつたからである。
 一行は駿さんの十二を最少として、二十歳に近い伊藤の丈さん、その弟の秀さん、藤野の準さん、戸塚の巍さんと私の二つ違ひの兄とで、皆十五、六歳の年恰好、おいさんを合せて八人の一行であつた。八月の或る日のことだつたと思ふが、暁の三時に家を出るといふことで、私達は早く起きて母の心尽しの朝飯を食つて出かけた。その時母は父の命で小鯛の白味噌汁を作つてくれた。その旨かつた味が今に忘れられない。精進を宗とするお山行の門出にこんな生臭を食はせたことを…

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